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神様はきっと、「いまここ」に宿る。


あなたは、「神様」を信じますか?

他にも、「天使」や「アセンデッド・マスター」、あるいは「宇宙人」。
さらに言えば、宇宙そのものとしての「ワンネス」。

スピリチュアルの世界では、当たり前のように語られる、このような高次元の存在を、信じている方はもちろん多いでしょう。

その一方で、それらの存在をあまり信じていない方にとっては、スピリチュアルの怪しげなイメージを助長するものになってしまっているかも…


たとえばYOKU STUDIOでは、キリストやブッダといったアセンデッド・マスターをイメージする行程を、「手放し」のワークのなかに取り入れています。


しかし、アセンデッド・マスターが実在していることを固く信じていて、それを信仰しているのか?というと、そういうわけではありません。


ワークのなかで高次元の存在のエネルギーを取り入れることと、特定の宗教を信仰することとの間には、大きな違いがあるように思います。


それは、「いまここ」を生きる感覚と、高次元の存在との関わりです。


現代スピリチュアルの観点では、「神様」のような高次元の存在は、私たちの「いまここ」(だけ)に宿る、と考えられるのでは?というのが、今回のお話です!


(読者の方には特定の宗教や信条をお持ちの方もいらっしゃると思いますし、それを否定するものでは全くありません。


すこし繊細な話になりますが、最後まで読んでいただければ嬉しいです。)





・なぜ人は「神様」を信じるのか?



世界中にはたくさんの宗教があり、それを信じている方はたくさんいますよね。


現代の日本には無宗教の方も多いですが、地域の祭りなどの習わしと結びついた信仰(氏神・土地神信仰など)は、わりと日本人にも馴染みの深いものです。


「信心深さとは無縁です!」という方のなかにも、金運・恋愛運アップといったご利益のある「パワースポット」の神社に、真剣にお参りした経験のある方もいるかもしれません。



スピリチュアルの世界は、宗教とは違って、特定の「神様」の存在やその教義を強調することは、あまりありません。


しかし、天使やアセンデッド・マスターとコンタクトを取るスピリチュアリストやチャネラーはたくさんいます。


そして、魂の次元上昇としてのアセンションも、宇宙そのものとしての「ワンネス」との統合がゴールとされています。


ということは、スピリチュアルの領域においても、「神様」的な存在、つまり人間のような3次元の肉体を持たない高次元の存在を、やはり想定しているわけですね。


科学・情報技術が発展し、世界中に普及している現代。


それでも多くの人々が、「神様」的な存在を信じることの背景には、共通した理由があるように思います。


「神様」というのは、不可解な出来事、未知な出来事に直面した時、私たちが反射的に想定してしまう存在なのではないでしょうか?



・神秘的原因としての「神様」


たとえば、かつて日本においては、自然崇拝としてのアニミズムが主流で、それが神道の元にもなっています。


アニミズム的な信仰が発展した背景には、洪水や干魃、地震など、人間が制御できない自然の脅威に直面した経験が、大きく影響しているように思います。


「なんでこんなことが起きたんだ!」「こんな状況の前では、私たちはどうしようもない…!」


たとえそれが、自然の引き起こした偶然だったとしても、その脅威に触れた時、人はそこに神秘的な原因としての「神」を見た。


だからこそ、脅威としての自然を、人智を超えた「神様」としてあがめる(場合によっては人格化して崇拝する)宗教が生まれたのではないでしょうか?


つまり、不可解で恐ろしい現象を引き起こした原因として、「神様」を想定したわけですね。

また、人が「神様」の存在を信じる時は、自然災害などの辛い試練だけではありません。


たとえば、「宝くじが当たった!」とか、「トントン拍子に大出世した!」とか、「信じられないくらい素敵な人と出会ってすぐ付き合うことになった!」とか。


身に余るような幸運が急に降りかかってきた時、それを「神様のご加護だ!」と考えることがありますよね。


それはつまり、その幸せな出来事が自分の身に起きたことがあまりにも不可解だから(いわゆる「幸せすぎてこわい」状態ですね)、その原因を、「神様」という人智を超えた存在に求める考え方です。



だとすれば、私たちが「神様」を信じる大きな要因は、「いまここ」で体験している何かしらの脅威や神秘を、何とか解釈して腑に落とそうとする人間の欲望にある、と考えられるように思うのです。






・「神様」はいつも「いまここ」に現れる、しかし…


このように、「神様」というのは、「いまここ」の私たちが、不可解な出来事、未知の出来事に遭遇した時に、私たちの意識のなかに現れる存在。


「神様」は、「いまここ」の私たちが感じ取る神秘そのものに結びついていると考えられるんです。


つまり、「神様」は「いまここ」にこそ宿る!

実は、私たちが生きる「いまここ」の感覚を離れては、「神様」は存在しないとさえ、言えるのではないでしょうか。


しかし一度、不可解な出来事の原因として「神様」を捉えると、人はあらゆる現実の出来事の背景に、その「神様」を据えてしまいがち。


テストで失敗した、何もないところでつまづいて怪我をした、という不運。


臨時収入があった、好きな人と会えた、という幸運。


いずれにせよ、それが実はまったく偶然に起こったことであっても、「神様の罰だ…」とか、「神様を信仰しているおかげだ!」といったように、「神様」によって引き起こされたものだ、と自動的に考えてしまう。


そうなると、「神様」という存在は、「いまここ」の私が世界に向き合って得る感覚から離れたものになってしまいます。


それは、あらゆる出来事の答え、世界の原則として、いつも変わらずに存在し続ける「神様」。


そのような「神様」は、まさに宗教的な信仰の対象です。


そしてそれを信じる人々は、その怒りとしての罰を恐れたり、その恩寵にすがろうとして、過度に規範的な行動をとったり、信心を目に見える形で示そうとするようにもなります。


私たちの不変の規範となる(もっと強い言葉で言えば、ある種「私たちを支配する」)存在として、「神様」が想定されてしまうわけです。



・アセンション期における「神様」


本来、スピリチュアルが目指していたのは、宗教的な想像力、つまりこういった規範的な「神様」の想像力から抜け出すことでした。


これまで何度かお伝えしているように、アセンションの目的は、原因-結果の因果律から抜け出し、宿命性を手放し、もっと自由かつ柔軟な「いまここ」の視点で、世界と向き合えるようになること。



けれど、残念ながらと言うべきか…


そのスピリチュアルの世界で語られる高次元の存在が、やはり規範的な「神様」のような形に逆戻りしてしまっていることも、よくあるんです。


たとえば、「神様」からの「ご利益」を期待して願かけをする、といった行為は、まさに因果律的に「神様」を捉えているからこそ、生まれるものですよね。


YOKU STUDIOでは、「神様」とは、「いまここ」を生きる私たちに開かれている未知の可能性そのものではないか、と考えています。


因果律に支配されない偶然的な世界で、「いまここ」の私の意識に生じる、今までにない変動そのものにこそ、神秘が、つまり「神様」が宿るのではないでしょうか?


高名な物理学者であるアルベルト・アインシュタインが語ったとされる言葉に、「神はサイコロを振らない」というものがあります。


原因-結果の因果律にのっとった物理法則が当てはまらない、偶然の確率に左右される量子力学を批判した、この言葉。


アインシュタインは、この物理世界全体を支配する絶対的な因果律そのものを、「神」になぞらえていたわけです。


けれど実は、むしろ「サイコロ」にこそ、つまり偶然の確率の方にこそ、「神」は宿るのかもしれません。


重要なのは、未知の出来事に直面した「いまここ」の私が感じ取る一瞬一瞬の神秘を、(原因-結果の解釈なしに!)そのまま受けとめる姿勢です。

偶然的な確率の世界のなかで、「いまここ」の私の意識がダイナミックに変化し、もっともっと自由で柔軟になっていくプロセスにおいて。


「いまここ」の私の意識に生じる様々な変動の神秘=「神様」のエネルギーを、自身のなかで大切に受容し、日常生活に生かしていくこと。


それが、アセンション期にふさわしい「神様」、つまり高次元の存在の捉え方であり、向き合い方であるように思います。



アセンション期における「神様」はきっと、特定の出来事を引き起こす神秘的な原因でも、不変の規範でもなく。


いつも「いまここ」の私たちの感性を揺さぶり、その意識を拡張し、生き方の可能性を広げてくれる存在なのだと思います。


次回は、YOKU STUDIOが考える高次元の存在のあり方について、さらに具体的に語っていこうと思います!お楽しみに。




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