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スピリチュアルカウンセリングって本当に必要⁉︎⑤【翔哉のひとりごと 第6回】

みなさん、こんにちは!
YOKU STUDIO代表の翔哉です。

前回、ある種のアセンション言説を前提としたスピリチュアルカウンセリングは、単一の物語や複数の物語を乱発的に横断する生き方を前提としている諸々のカウンセリングやサービスを超越した、第三の道の可能性を提示してくれるものではないか?ということを考えてきました。





では、その第三の道としての "脱物語化"的生の営みとはなんなのかを、もう少し深ぼっていきましょう。





・私たちの世界解釈は圧縮されている?




私たちを取り巻くこの世界は、とても複雑で多様で、実は私たちの認識能力では手が余るものであるということが言えるかと思います。


と言われても、皆さんの中では、"ちゃんと自分の周りの世界は認識して理解(処理)できてるよ!"と、直感的には思われる方もいるかとは思います。


そうなんです...それが意外な落とし穴なんです。


実はそれがすでに、無自覚にある物語や限定されたシステムで作られた感覚だとしたらどうでしょうか?



私たちは、何かを判断するときにそこには判断基準が必ずあります。その判断基準はそれぞれ、個々の経験によって作られた個性(スピリチュアルではこれはハイアーセルフ が選んだ先天的なものと定義されますが、ここでは、スピリチュアル的な観点ではなく後天的に作られるという一般的な観点に立って論証していきます)に近いものです。


そしてそれは、実は私たちが思っているほど複雑な機能、もしくは多様な価値判断で成り立っていません。いろいろな現実の情報を恣意的に選び取り、捨象しながら、世界を解釈していると考えます。



その、ある種の世界解釈の圧縮作業は、僕らの限られた認識能力で複雑で多様な世界をサヴァイヴするために必要な効率化の機能ではあります。


しかしそれが、僕らの人生を幸せにも不幸せにもさせる大きな原因子となっているのです。


どういうことでしょうか?






・偏った世界解釈が"物語"を生む




この世界解釈の圧縮された認知システムは、当然のことながらある一定の期間、変わらず駆動し続けます(当然、本人は解釈が偏ってることには無自覚です。)


その、認知システムの無自覚な反復的駆動は、その判断基準の偏りによってある種の物語やドラマのような体験を生成します



圧縮された偏った判断は、"これは嫌い、これは好き"とか、"こういう人は敵、こういう人は味方"、みたいなものをかなり直感的に無自覚に、いろいろな物事の解釈に適応されていきます。


すると、その偏った物事の反復的解釈は、当然多様な物事の限定的な側面しか解釈しないので、世界を"敵か味方か""善か悪か""正しいか間違いか""良いか悪いか"、と二分していきます。



その二分の反復は、絶えず良い状態だけでなく悪い状態も作ります(良い状態と悪い状態の割合は、人によっては悪い状態の方が多い人がいますが、それもこの世界解釈の圧縮に影響されています)。


そうなると世界は、絶えず"良いか悪いか"の状態を反復する、いわゆる"一喜一憂の人生ドラマ"になる


つまりは、複雑な世界を簡易的に解釈する、もしくは人間の世界解釈の能力に合わせる形でどうしようもなく発生してしまう世界解釈の圧縮作業は、その偏りから個々人が抱えてしまうドラマ、もしくは物語の形成につながっていくのです



同じ言語を話している者同士でも、その前提となっている世界解釈は常に違うものを前提としているので、こちらの言葉は相手のドラマの中に回収され、そのドラマに即した編集をされてしまいます。


(この議論に近接した議論は、”"中の人"の記事で書かれているので、そちらも是非参考にしていただければと思います。)





ここまで、人間はその世界解釈の限定性から、必然的に無自覚な宿命的なドラマを生成してしまう、という話をしていきました。


そこで、いよいよ大事になっていくのが、"脱物語化"の考えになります。







・"脱物語化"=世界解釈を柔軟にすること





無自覚な世界解釈の偏りは、自分が無自覚に生成した物語やドラマを宿命的・絶対的なものとしながら、自己の意識の中に君臨しています。


そのドラマの中で過剰に敵対視されていたり、悪いものとされているものは、平たく言ってしまえば、人それぞれの偏見や思い込みから生成されているわけです。


でも、実はそれはどんな人も多かれ少なかれ持ち合わせているもので、むしろそれがなければ、僕らの顕在意識は、普通の認知すらままならない状態になってしまいます。



では、その"物語"を"脱"することはできるのでしょうか?


そして、それが実現することでどんな豊かさが体現される可能性があるのでしょうか?(ちなみにこの"物語"は、ブッダが語った"我"に該当すると思われます)




結論から言えば、完全に物語をなくすことはできないはずです。(多分論理的に?)


人はどんなに、解脱や手放しを徹底したとしても、最小限に押さえ込まれたような形であっても、世界解釈の偏りやドラマを持ってしまう。


もし持っていなかったとしたら、肉体を持って生きている意味をなくすことになり、極端に言えばそれは、人間としての死を意味することになると僕は考えます。


("アセンション" がブッダの唱えた涅槃や悟りと違う点は、肉体感覚をしっかりと持ちながらにして達成されることだというのも、僕の考えの中にはあります)



ですが、個々人が常にその偏った見方で世界を解釈しているということを自覚し、違う見方が他にもあるんだ、という意識を持っておきながら、その瞬間瞬間に、"こうも見えるかもしれないし、ああも見えるかもしれない"と、"どれでも良いし、どれでもない"ような世界解釈の柔軟性を持ち続ける必要があるはずです。


これは、当然、"修行僧パターン"の単一的な物語への埋没とは違うことは言うまでもないとしても、"ジプシーパターン"の乱発的複数性とも違う考えになります。


以前例えに挙げていた"占いジプシー" の例でいうと、霊能鑑定・ヒーリング・占い・ツインレイ診断などを乱発的に受けている、その瞬間瞬間は、外から与えられた特定の物語を本気で信じています。


ロングスパンで見ていくと、“占いジプシー” の世界解釈は複数的に見えますが、結局はその場その場で、局所的に、強くて短命な単一的物語に埋没しています。



大切なのは、まず自分が世界解釈の偏りを持っていること、色眼鏡をつけていることを認識することです。


世界をサヴァイヴするにあたって出てくる不快感や不毛さ、自信のなさや無力感、あるいは逆にポジティブな信念や思いに由来する、他者や世界に対する差別的な思いは、かなりの割合で、その世界解釈の偏りや色眼鏡によって生成されていることを、常にメタな視点やパースペクティブで捉えておくのです。


それを自由に着脱したり(手放しや思い込みの解除)、思考や想像力の中で、他の“だったかもしれない”可能性を複数的に持っておくことで、極端な対立や、過剰な情緒的興奮に埋没するドラマを避けることができます。



軽やかで制御可能な、"脱物語"的で広い想像力の中で、思考実験的に“こうかもしれない、ああかもしれない”といくつも可能性を持ち合わせておくこと。


そして適宜、その想像力の中にある一つの可能性としての私を、肉体にインストールしアップデートしていくことで、自分自身に縛られないある種の自由な豊かさを実感できるのではないでしょうか?




ということで、ここまで"脱物語化"の可能性について考えてきました。


次回は、今回最後の方で少し触れた、想像力の中の"複数の可能性としての自分"の話をもう少し詳しく語っていけたらと思います!


次回もお楽しみに!!!!!




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