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YOKU STUDIO的「欲、適応しよう」の考察③


みなさんお疲れ様です。Oです。
毎日暑いですね。

突然ですが、私は最近吉本ばななさんがブームでして。

今回のテーマのヒントにもなりそうかなと思ったのと、読んだ後も頭から離れない部分があったのでぜひシェアさせてください。



「大人になんかならなくっていい、ただ自分になっていってください」いちばんだいじなことは、自分の中にいる泣き叫んでいる子どもを認めてあげることです。ないことにしないことです。そうすると心の中に空間ができて、自分を大丈夫にしてくれるのです。

(おとなになるってどんなこと?/吉本ばなな)






今回のテーマである「自分に適応する」と聞いて、みなさんは何をイメージされますか?


自分で設定しておいてなんですが、私は正直いうとまだ「善処します…!」と反射的に言ってしまうかもしれません。


過去の記事で”改めて自分を見つめ直し、認めることが「欲、適応しよう」における「適応」への第一歩なのではないでしょうか”と書いたものの、今回のテーマに取り組む際、ざわめきを感じたのが本音です…


「自分に適応する」例えば、自分の正直な気持ちや考え方や行動を認める、尊重する、自分自身を受け入れること、自己肯定感、自己効力感、自己受容…?


上記の例を自分に対してやろうと思うと(前よりはだいぶ軽くなりましたが)「うまく言えないけどなんとなく、だめな気がする」という気持ちがまだどこかにあって。それに対して、なぜそんなに自分を嫌がってるんだ、全然だめだって何と比べてるんだ?と自分で自分にマウントをとりだしたりして…不思議ですよね。私も不思議です。ふと気を抜くと、癖でやってしまう感じが近い気がします。



そこで今回は、精神科医・斎藤 環先生の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA 2022年) を取り上げてみたいと思います。


下記の内容紹介を見て、自身の内に向く攻撃性や一種の執着のようなもの、こじらせ、自己否定も思い込みが強いところも当てはまる…

そして「健全な自己愛」というワードが妙に気になり、手に取ったのがきっかけです。




「自分には生きている価値がない」「ブサイクだから異性にモテない」。言葉で自分を傷つける人が増えている。「自分が嫌い」をこじらせてしまった人たちの、自傷行為のように見える言動。その深層心理に、ひきこもり専門医である精神科医が迫る。誰にでも、何歳からでも起こり、一度おちいると出られない、徹底的な自己否定。「ダメな自分」「変えられない自分」の思い込みを見つめ直し、健全な自己愛を取り戻す方法を探る。

(「自傷的自己愛」の精神分析/斎藤環)

「自傷的自己愛」の精神分析 (角川新書) www.amazon.co.jp 911円 (2023年01月30日 14:13時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する




帯の「自分をディスり続ける人たち」も目を引きますよね。


それでは見ていきましょう!








・自傷的自己愛とは






タイトルにもある「自傷的自己愛」について、斎藤先生はこう定義されています。




自分自身について、あるいは自分が周囲からどう思われるかについて、いつも考え続けているということが挙げられます。他人と比較しながら「自分はダメだ」「●○と比べたら価値がない人間だ」などと自分自身を傷つけ貶める考えをやめられない。そういう意味で、自分自身についてずっと考え続けている。だとすれば、それは否定的な形であれ、自分に強い関心があるということになります。それはまぎれもなく、自己愛の一つの形ではあるでしょう。この逆説的な感情を、私は「自傷的自己愛」と呼ぶようになりました。

(「自傷的自己愛」の精神分析/斎藤環)




ひたすら内に向かっていく、私もやりがちな自罰的な一人相撲に近いものを感じます。




彼らは「自分のこういうところが嫌い」という言い方はあまりしません。ただ、「自分が嫌い」と言います。「どんなところが?」と尋ねても「何もかも」「全部」という答えが返ってくるだけです。(中略)彼らのキャラ自認は「すべて良い」か「すべて悪い」の白黒思考に陥っているように見えるのです。

(「自傷的自己愛」の精神分析/斎藤環)




…この頑なさと白黒思考、身に覚えがありますね。


当書にもありましたが、こういった傾向があると(様々な要因の上で)ほめられても自分の価値を感じにくい、例え成功しても自己肯定感が得にくいこともあるようです。


こういった自分自身のネガティブな部分を確立し、そのキャラを徹底的に批判していくスタイル。自己愛の一つの形であって、それで保っているものがあったとしても、そのキャラは自分が強化し確立したもの(敵に近い?)であり、幻想に近いものなのではと感じました。そして過剰さや、どこかアンバランスな印象も受けます。






・「自己愛」と「自分自身であること」






ここで、改めて「自己愛」を調べてみましょう。




じこ‐あい【自己愛】  〘名〙 自分自身を愛すること。自愛

(精選版 日本国語大辞典)




ナルシシズムの元ネタである神話のナルキッソスのような「自分が大好きな人」を連想させますし、精神医学の世界では批判的な意味合いを持たれたり、「自己愛性パーソナリティ障害」「自己愛的人格」という診断名に見られるように、ネガティブなニュアンスを持つ言葉とも書かれています。


当書の中で、斎藤先生は「自分自身でありたい」欲望こそが自己愛と語っており、

荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する岸辺露伴というキャラクターを例に挙げています。




彼は天才的な漫画家で、静かな環境で創作に打ち込むことを無上の喜びとする本物のナルシシストです。あるとき彼は、敵に襲われて瀕死となります。敵は命を助けてやるから仗助(主人公)をハメろとそそのかします。岸辺は「本当に助けてくれるのか?」といったんは誘惑に乗ったふりをしつつ、次の瞬間、俄然と言い放ちます。「だが断る」と。「この岸辺露伴が最も好きな事のひとつは、自分で強いと思っているやつに『NO』と断ってやる事」というのがその理由です。(中略)そのような美しくない行為に手を染めたら、自分が自分でいられなくなる。だから彼は「だが断る」と言い放つのです。私は自己愛を「自分大好き」とは言い換えません。岸辺露伴のように「自分自身でありたい」欲望こそが自己愛です。「自分自身でありたい」という欲望の中には、「自分が好き」も「自分が嫌い」も「自分がわからない」も、すべて含まれています。逆に過剰な自己肯定感は、時に「自分自身」から乖離してしまうおそれがあるのではないでしょうか。

(「自傷的自己愛」の精神分析/斎藤環)



このことから、「自分が好き」「自分が嫌い」「自分がわからない」など、どれかに振り切らず過剰にならないことが大切なのかもしれないと感じました。


斎藤先生が仰るように、過剰な自己肯定感を持つことの乖離のおそれや、だめな自分に膠着しすぎてしまうとそれが足枷となってチャレンジなどが難しくなってしまう気もしますし、「自分がわからない」と途方にくれてしまうことも、一種の過剰さかもしれません。また「健全な自己愛」への一歩として、そういったキャラの固定化をせず、幅を持たせているような多義性も大事になるかと思います。



ここまで読んでくださってありがとうございました。

次回はもう少し具体的な「健全な(健康的)な自己愛」と「自傷性のやわらげ方」について、見ていきます。


またぜひよろしくお願い致します!




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