top of page
  • YouTube
  • Instagram
  • Facebook
  • Twitter
  • TikTok
note_kv.jpg

スピリチュアルカウンセリングって本当に必要⁉︎⑧【翔哉のひとりごと 第9回】


「人間の欲望とは<他者>の欲望である」
“Le désir de l'homme trouve son sens dans le désir de l'autre”

 ジャック・ラカン『エクリ』(1966:814)


フランスの高名な精神分析学者、ジャック=マリー=エミール・ラカンは、人の欲望は大文字の他者(他人、社会、言語......)から成ると言っています。


あまりにも荒唐無稽に聞こえる。それでいて、なぜか納得してしまう部分があるこの文言に、コミュニケーション的主体における欲望の生成の原理があると僕は考えています。


どういうことでしょうか?






・他者の介入を生かしつつ、自分の物語を生成するには?





ここまでの論考においては、人が作り出す世界解釈の圧縮は、あまりにも無根拠に、しかし僕らの認識のなかで絶対的な根拠を持っているかのように振る舞うことを指摘した上で、私たちがその世界解釈の物語の中で日々の生活をなんとか送っている様を考察していきました。


そして、その無根拠でありながらも絶対的に支配された状態での物語を解体し手放すこと、環境とのインタラクションの中で自動的に生成されてしまう物語を解体する反復的作業の中で、自分たちの物語生成の行程を、肌感覚で身に付けることが可能になっていきます。

















そして、これも前回の記事のなかで考察した内容ではありますが、私たちは、主体の外(僕らの意識の外に頑然と広がる他者や、社会、文学.....)からの乱数的介入によって、幸か不幸か、その世界解釈の圧縮としての物語を訂正していきます。


そしてこの意識の運動性は、先に触れた、ラカンの有名なあの文言に接近していきます。


大文字の他者(他人、社会、言語......)の欲望が、僕らの意識に、言語を媒介として介入した時、私たちの欲望は捻じ曲げられ、訂正されてしまうのです。


(ここでラカンの言う欲望は、この論考で何度も言及してきた“物語”に対応すると考えます。"物語”は、ある特定の仕方で世界を圧縮的に解釈するツールとなり、自動的に私にとっての快、不快を決定し、欲望の指向性を決定してしまうと考えるからです)


一般的な人の意識構造の中では、その物語の訂正は、無自覚かつ半強制的に行われてしまいます。



ただ、前回までの記事で考察してきたように、私たちは物語の解体可能性とともに、その逆の、生成可能性も持っているはずです。


そしてそれが、大文字の他者/ l'Autreからの契機を恣意的に使っていく戦略を可能にするはずだと考えます。


(ここで言っている恣意性は、強固な単一の物語に支えられた低い意味での欲望や、思い通りにしようとする独我論的な意思ではなく、限りなく既存の物語を解体した先にある、“なんとなくこっちかな?”ぐらいのレベルの恣意性です。願望実現的な引き寄せの法則とは一線を画すものと考えています。)







・そもそも他者はコントロールできない






先の記事でも触れたように、僕らの主体を取り巻くこの現実世界は、基本的に、コントロール可能性はかなり低いです。


つまり、日々変化するこの世界は、僕らの意識とは残酷なまでに関係なく、自律的にかつ複雑に動いています。


だからそれ自体を、私たちの"なんとなくこっちかな?”ぐらいの恣意性でコントロールすることは難しい。


(ただし、それと同時にこの物理現象としての予期せぬ出来事はかなりの強度を持って、私たちの意識の物語変更に影響することも確かです。例えば、天災や戦争....)



大文字の他者(天災や戦争....)であれ、小文字の他者(人とのコミュニケーションや読書体験....)であれ、その“他者”自体を“コントロール”することは不可能であり、その指向性を持つこと自体がエゴイスティックな働きに他なりません。


ではどうするか?


どのように、私たちの緩やかな恣意性によって、自分自身の物語を紡いでいくのか?


ここに、今回の考察の論点は集約していきます。







・他者との共同作業によってスケッチを描き出す





無自覚に生成された物語は、ある極へと収束された単一性を帯びています。


(厳密に言えばこの単一性は完全な"一"ではなく、"単一的に見える"ぐらいの意味だと捉えてください。ある程度のレベルで人は、自分の中に分裂的な複数性を持ち合わせてしまいます)



しかしその無自覚な単一性の構造的解釈から、それを解体し、ブッダ的な我の手放しによる涅槃状態への漸近線的近接をしていくことにより、人は無欲な状態となり、指向性を持たなくなります。


まるで、極彩色に彩られた、キャンバスをペインティングナイフで絵の具を削り取り、タブララサ(白紙)の状態にしていくように、私たちの意識の無の状態を形成していくのです。



ならば、そこから新たに物語を生成していくためには、亡霊のように迫り来る外部的な他者からの上書きが果たされる前に、自らの筆による自らの絵画を何重ものレイヤー(虚数的複数性)によって描くことを目指すべきであるように思われます。


しかしそれは、私という一人の自律的主体の手つきによって可能なのでしょうか?


私たちの、自律的主体の手つきは、あまりにも外部からの亡霊の支配・コントロールに対して弱すぎるのではないでしょうか?


強迫的に迫ってくる、他者からの物語の強制的修正。それを解除したのちに立ち上がるタブララサ。しかしそれでもなお、私たちに自らの手で物語を描くことを許さないかのように再度迫ってくる亡霊と、そこへの応答責任。


そしてその亡霊たちは、錯乱した状態で、複数的に迫ってくる…。


とすると、私たちにはもう、成すすべがないように思われますよね。



しかし私たちは、その応答責任に真っ向から立ち向かうこと、完全に自律的に自らの手で描くことを半ば諦め、緩やかな恣意性によって、気ままにその亡霊たちの声に耳を傾け、時には耳を塞ぐような、対話と共生を許されています。


つまり、亡霊たちへの応答責任の選択権は、私たち自らのうちにあるはずなのです。



複数の、外部的乱数としての他者その全てに答えていくことは不可能です。


しかし、自らのペースで、自らの裁量のもとで、時に反駁し時に強調しながら、亡霊たち(外部的他者)と共に、幾重にも重なるスケッチを描いていくことは可能なのです。






・複数のスケッチのなかから、自らの絵画=物語を選ぶ





ただし、絵画はスケッチだけでは完成しません。


私たちは、仮固定的なものにせよ、"今ここ”の時制の中で、亡霊たち(外部的他者)との共同作業によって描かれた一連のスケッチ群から、どれか一つを選びとらなくてはならないと思います。


スケッチだけで“私はどんな絵でも書ける”という態度は、責任主体としてのあり方としてはあまりにも脆弱だからです。



スケッチは、外部の乱数(大文字の他者)からの働きかけによって生じた想像力を、可能な限り生かして描く必要があります。


そしてその複数のスケッチ=多角的で立体的な世界解釈の可能性の中から、自らの直感("今ここ"の感覚に合うかどうかの判断)に従い、仮固定的に、でも自らの選択に一定の責任を帯びながら、私と他者とのギリギリの緊張感の中で、緩やかな恣意性を挟み込む形で、自分の絵画(=物語)を決定していくこと。


それが、他者とのコミュニケーションを基盤とした、複数的虚数的主体(スケッチ)と、仮固定的実数的主体("今ここ"で描かれた、しかし書き換え可能な絵画)の二重性が織りなす、コミュニケーション的主体のあり方だと考えています。。。。。



と、ここまで、かなり抽象的かつ思弁的に書きすぎたかもしれないので。。。。次回はもうちょっと具体例をひきながら書いていければと。。。。w


次回もお楽しみに!!!!!





bottom of page