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「話し合い」は逆効果かも? 〜 「統合」のコミュニケーション学


前回の投稿では、「統合」について哲学的に考えてみました。

二つのものの対立構造を前提として、それを一つに融和していこうとする「弁証法」ではなく、その対立構造自体を解体していく「脱構築」の方が、スピリチュアル的「統合」に近いのでは?というお話でした。

それを踏まえ、今回からは、この「脱構築」としてのスピリチュアル的「統合」の可能性を、日常生活に照らし合わせてみます。


たとえば、身近な人とケンカをしたり、意見のすれ違いが起きた時、「話し合い」をすることって多いですよね。


でももしかしたら、あなたの「話し合い」は、スピリチュアル的な「統合」から遠ざかるきっかけになってしまっているかもしれません…!




・「話し合い」ですべて解決?




私たちはもしかしたら、「話し合い」信仰のようなものを持っているのではないでしょうか?


小学校の時、クラス内でなにか揉め事があると、先生の主導で、クラス全体で「話し合い」をした記憶のある方は多いでしょう。


またパートナーや友人、家族内で、何かの火種が生じてしまい、険悪なムードを何とか乗り越えたいな…という時、「とりあえず、話し合いしよう!」という流れになりがちですよね。


「話し合い」というのは、問題解決の万能ツールとして信じられているところがあるように感じます。

ケンカをしたり意見がすれ違った時、お互いに心を開いてコミュニケーションすることは、もちろん大事です。


でも、ここで考えたいのは、「話し合い」=「妥協点を探ること」になっていないだろうか?ということです。


お互いの言いたいことを言い合った後、片方が折れて、もう一方の意見を受けいれること。または、お互いの意見の中間点を探すこと。それが「話し合い」だと、無意識的に考えてしまっていませんか?


つまり、お互いの意見が違うという前提についてはノータッチで、その違う意見をどうように合致させて一つにしていくか、というプロセスにだけ、意識が向きがちなように思うのです。





・「私とあなたは違う」という前提



「妥協点を探る」プロセスとしての「話し合い」が前提としているのは、お互いの意見の違いです。


「私とあなたは違う」という前提は変わらないものとしてあるからこそ、その違いをどうにかすり合わせていくことにだけ集中してしまうことになるのです。


それはいわば、自分と違う意見を持つ「敵」として相手を認識し、その「敵」と和平協定を結ぶプロセスと同じようなものです。


これはまさに、「対立する2つのもの」という前提を保ったまま、それが一つに「融和」することを目指す、「弁証法」としての「話し合い」の形です。


しかし、「私とあなたは違う」という前提があると、たとえ妥協点としてのお互いの「融和」ポイントが見つかったとしても、どこかで無理が生じてしまうことが多い。


なぜなら、その融和というのは、お互いの意識が何も変わらないままで、とりあえず最低限、揉めることなくやり過ごすための方法を見つけたに過ぎないからです。



本当に必要なのは、「私とあなたは違う」という前提意識そのものを変えること。


つまり「脱構築」的に、「私」↔︎「あなた」という自他の区分、あるいは「味方」↔︎「敵」という二分法を無効化して、スピリチュアル的な「統合」をすることなんです。






・意識の変化としての「統合」



具体例を挙げてみましょう。


パートナーのことは好きだけど、どうしても嫌で許せないような癖を持っているとしますよね(例えば、部屋の片付けが苦手だとか、洋服を買いすぎるとか…)。


ついつい「部屋片付けてよ!」「そんなたくさん服買っていつ着るんだよ!」などと文句を言ってしまい、相手も負けずに言い返す。


そんなわけで、いつもケンカが絶えないことを問題視して、「話し合い」をすることになった。

もしそれが「弁証法」的な「話し合い」の場合、そこから出てくるのは、「二日に一回に掃除をする」とか、「月に買う洋服の枚数を決める」といった条件を相手が受け入れる、という妥協案であることが多いと思うのです。


その妥協案というのは、自分が相手に「せめてこれだけはやってほしい」ことであり、相手が自分に「しょうがないからこれだけはやってあげる」こと。


お互いがお互いに対して妥協してやっている、という気持ちがあるから、それを守っていくのはストレスになることも多いし、たとえそれを守ることができたとしても、自分にとっても相手にとっても、あまりポジティブな気持ちにならないんですよね。

このようなことが起こるのは、「私とあなたは違う」という前提が強くあり、「あなた」をある意味で「敵」と見なしているから。


そして、「敵」との間に違いがあることは仕方のないものだ、変わらない事実だ、という諦めの気持ちがあるから。

しかし、スピリチュアル的に言えば、目覚め・アセンションへと向かっていくプロセスというのは、「私」↔︎「あなた」という区分も、そして「味方」↔︎「敵」という区分も必要ない意識へと近づいていくことです。


そのような意識を持って、相手を自分の「敵」と見なすジャッジ自体を手放し、相手との違いを苦しみの源として認識しない状態になれば。


つまり、許せないと思っていたその違い自体を、発想の転換によって、自分が無理なくやり過ごせるものとして再解釈し、むしろ、自分の毎日を面白くしてくれるものとして上手く利用できれば。


「私」と「あなた」を隔てる違いはもはや、意味をもたなくなるのです。


それこそが「脱構築」としての、スピリチュアル的な「統合」なのだと思います。

そんなこと本当にできるの?って思いますよね。でも、「脱構築」的「統合」は、単なる理想論にはとどまらず、意外と日常生活で実践することができるものなんです。


次回は、そのような「統合」の方法について、さらに具体的に解説していきます!