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「悟り」には3種類ある。


「悟り」というのは、なんとなく難しいもののように思われがちですし、「無欲」、「諦め」、あるいは「厳しい修行」といったイメージと結びつきやすい言葉です。

しかし、すでに一度noteで書いた通り、特に「目覚め」「アセンション」へと向かっていくこの時代においては、「悟り」とはなにも特別なものではなく、誰でも気軽に到達でき、人生を思い切り楽しめるマインドとして捉えられるんです。


今回お話しするのは、人が「悟り」に至るまでのプロセスについてです。


「悟り」の境地に至ったと語り伝えられる、あまりにも有名な、歴史上の2人の人物。イエス・キリストと釈迦(ゴータマ・シッダールタ、ブッダ)。


この2人の「悟り」のパターンについて検討しながら、YOKU STUDIOが考える、現代の私たちが「悟る」ために必要な新しいプロセスの可能性をお伝えしていこうと思います!


・「生まれた時から悟っている」パターン


まずは、イエス・キリストについて。


ナザレの地に生まれた彼は、言わずと知れたキリスト教の創始者であり、世界中の人々の信仰の対象になっている人物です。


彼のエピソードは、『新約聖書』に数多く記されています。


使徒によって書かれたとされるそれらのエピソードが、どこまで信憑性があるものかはともかくとして。(もちろん彼らには、イエスという一人の人間を、飛び抜けて神聖な存在として描写しようという意図があったはずなので…)


聖書の記述から見えてくるイエス・キリスト像は、生まれながらの神童であり、賢く勇敢で、慈愛に満ちた人物です。

たとえば有名なのは、「ルカによる福音書」に記された、12歳のイエスのエピソード。


ユダヤ教の祭日である過越祭に、毎年エルサレムへ旅をしていた両親に従って、イエスも都に上りました。


しかし帰路についたとき、イエスがいないことに気づき、エルサレムへと引き返します。


彼らが見つけたのは、神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、賢い受け答えをして周囲の人を驚かせているイエスの姿でした。




 


両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。



 

(ルカによる福音書 2:48-50)



イエスが持っていたのは、わずか12歳で、熟練の学者たちを相手に、堂々と受け答えができるほどの賢さ。


そして、神殿を「自分の父の家」と呼ぶような、「神の子」としての自負。


このように、幼い頃から才能にあふれていたイエスは、その後成長するにしたがってますます知恵をつけていきます。


しかし、そうかといっておごりたかぶることはなく、民衆に分け隔てなく接しながら、自身の思想をわかりやすく説き、共同体を作っていきました。


彼がたどり着いた、人種や職業差別を斥ける「隣人愛」の思想というのは、もちろん当時としてはかなり画期的なものだったでしょうし、まさに「分離」から「統合」へと至る「悟り」の思想として、現代の私たちにも響いてくるものです。


つまり、イエス・キリストとは、「生まれた時から悟っている」人物だったと言えるのではないでしょうか?


・「孤独な修行によって悟る」パターン


それとは対照的な「悟り」のプロセスを歩んだのが、釈迦。こちらも言わずと知れた仏教の開祖です。


しかし、民間の家に生まれたイエスとは違い、彼は紀元前5〜6世紀ごろ、ルンビニーにおいて、シャカ族の王子として生まれました。


結婚もして、子供も生まれ、王宮で何不自由なく暮らしていたのですが、老・病・死という人間の苦しみに触れ、そこからの解放の可能性を探究するために、王宮での暮らしを捨てて出家します。29歳の時でした。


彼は長年にわたって山林にこもり、孤独で厳しい苦行を行います。


そして山林を出た彼が、菩提樹の下に座しての瞑想に入り、ついに至ったのが、まさに「悟り」の境地であるとされています。

「諸行無常」という言葉で表されるように、この世の物事は常に変化していて、とどまることがない。


だからこそ、物事に対する様々な執着から自由になることで(解脱)、人間は苦しみから解放されるのだ、と釈迦は考え、その教えを多くの人たちに伝道しました。

そのために必要な態度として彼が説いたのは、「中道」です。


極端な立場にかたよった生き方ではなく、それを超越した自由な生き方を目指す考えです。


これは、たとえば快楽主義↔︎禁欲(苦行)主義といった、極端な二項対立におちいることなく、その対立自体から身を離して生きることが、「悟り」には必要だと説いたのです。

釈迦自身が、豊かな生活を捨てて出家し、厳しい修行の末に「悟り」に至った経験から導き出されたこのような考え方は、「目覚め」「アセンション」において不可欠な、二項対立の乗り越えとしての「統合」の思想に近いものであると言えます。


(ただし、わりと一般的に普及している、「二項対立のちょうどいい真ん中を選ぶこと」としての「中道」の解釈は、「統合」とは意味合いが異なるものです。


なぜなら「統合」とは、私たちの認識の前提となっている二項対立自体を無効化し、変化させていくことだからです。)


つまり、釈迦という人物の生涯から見えてくるのは、「孤独な修行によって悟る」ことができる、という「悟り」のパターンなのです。




・「コミュニケーションで悟る」〜 現代版「悟り」の方法




イエス・キリストのように「生まれた時から悟っている」パターン、そして釈迦のように「孤独な修行によって悟る」パターン。


これまで、「悟り」に至るプロセスとして一般的にイメージされるのは、この2種類であったように思います。


つまり、「悟り」という状態に至れるのは、生まれながらに天才的な能力を持った人物か、あるいは何らかの目的を持って世俗から距離を置き、厳しい修行をした人物なのだ、というイメージが、定着していたわけです。


だからこそ「悟り」というのは、なかなか普通の人が辿りつけない、浮世離れした境地なのだと思われがちでした。

しかし、私たちが生きるこの時代においては、キリスト的でも釈迦的でもない、「悟り」のパターンが可能です!


その3種類目の「悟り」のパターンは、生まれつきの才能に左右されることはないし、世俗から離れて修行をする必要もありません。


むしろ、多くの人々との自然なコミュニケーションを積み重ねていくことが、現代版「悟り」のプロセスとなるのです。


つまり、「悟り」の主体となるのは、天才的な「私」でもなく、孤独な修行者としての「私」でもなく、「いまここ」を楽しむ「私たち」。

YOKU STUDIOが提案する、この複数形の「悟り」の可能性について、次回詳しくお話しします!