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過去の記憶を作るのは、「いまここ」の私。


みなさんには、「忘れられない」記憶はありますか?

なにかをやり遂げて充実感に満ちあふれた記憶、誰かの優しさに救われた記憶。

あるいは、どうしようもない現実に打ちひしがれて辛かった記憶、誰かの心ない言動に傷ついた記憶。

嬉しい記憶も、悲しい記憶も、どちらもあると思います。


でもここで考えてみたいのは、過去の記憶の強度についてです。


私たちは、毎日この世界に生きて、何らかの行動をし、誰かしらと関わって、その記憶を積み重ねているはずです。


しかし、全ての出来事を、時間軸に沿って、平等に記憶しているわけではないですよね。


つまり、記憶には強度の差があるわけですが、実はこの強度の差は、「現在を生きる私」によって生まれているのではないでしょうか?




・記憶は「いまここ」で作られる?



たとえば、電車に乗って、なんとなく車窓の外を眺めていた時、夕焼けがとても綺麗で、心惹かれたとします。


その時点では、夕焼けの風景が、脳裏に焼きついているわけです。

でもその後、急にスマホに仕事のメールが来て、そちらに意識が集中してしまうと、次の瞬間には、綺麗な夕焼けを見た事実を忘れてしまう。


そんなことって、よく起こりますよね。


記憶というのは、「いまここ」の瞬間瞬間の蓄積なのですが、人間の顕在意識がすべてそれを保ち続けることはできません。


その場その場で、特にインパクトが強い記憶であったり、自分にとって必要だと顕在意識で判断している記憶は、脳裏に残り続けますが、そうでない記憶は、すっと忘れさられてしまいます。


つまり、私たちが意識できる記憶というのは、顕在意識のジャッジによって(脳の構造で言えば、海馬の働きによって、ということになると思いますが…)、常に「いまここ」で作られ続けている、と言えます。





・その記憶を「忘れられない」のは、「いまここ」の私




つまり、私がある特定の記憶を「忘れられない」理由は、その記憶自体が強いというよりは、「いまここ」の私がそれを必要としている度合いが強い、ということ。


ポジティブな記憶であっても、ネガティブな記憶であっても、「いまここ」の私にとってそれが重要だと潜在意識が判断しているからこそ、その特定の記憶が残り続けているわけです。

「忘れられない」記憶というのは、「いまここ」を生きる私に力を与えてくれるものでもありますが、それがマイナスに働くと、「いまここ」を生きる私が持っている無限の可能性を縛りつけるものになってしまうことがあります。

たとえば、学生時代に友達にひどいことを言われた、という記憶が忘れられず、それ以来、人と深く付き合うことが怖い、というケースを考えてみましょう。


誰かと親しくなりそうになると、その記憶が蘇ってしまい、どうしても上手くいかないとします。


もちろんその辛い出来事自体は、実際にあったことです。


しかし、その記憶が「忘れられない」ものとして残ってしまっているのは、「いまここ」の顕在意識において、その記憶を持ち続けようとする傾向が働いているからこそ。


つまり、「いまここ」の自分が持っている、「私は結局、誰とも仲良くできない人間なんだ」という思い込みを、強化するアリバイとして、「友達にひどいことを言われた」という記憶が機能しているために、それが「忘れられない」のだと考えられるのです。


だとすれば、「いまここ」における私たちの意識が変化すれば、私たちの記憶自体が変化する、と言えるのではないでしょうか?








・記憶の強度の変更=過去の選択


このnoteでも何度かお話ししてきた、バシャール(ダリル・アンカがチャネルする宇宙存在)の考え方において、特に重要なものとして、「いまここ」というものがあります。


高次の意識としてのオーバーソウルの視点に立てば、過去も未来も存在せず、「いまここ」に全てが集約している。


だから、過去も未来も、「いまここ」から自由に選ぶことができるのだ、とバシャールは言います。


でも、これだけ聞くと、「え?過去に事実として起こったことを選べるないでしょ!」と思われる方、多いと思うんです。


直線的な時間へのとらわれはある意味で幻想で、すべては「いまここ」の私が作り出しているものなのだ、という考えは、バシャールに限らず、スピリチュアルの世界においてよく言われるものですが…


どうも実感を持ちづらいものであるのもたしかです。


そこで重要になってくるのが、先ほどの記憶の強度の話。


大前提として、過去に起こった「事実」自体は変えられない。


けれど、どの過去の記憶を強く持ち続けるかという、記憶の強度を決定しているのは、いつも、「いまここ」の私。


(言い換えれば、現在を生きる自分という存在と、過去の記憶とを繋ぐコードをコントロールしているのは、いつも、「いまここ」の私。)


だから、「いまここ」の私の、特定の過去の記憶に対する解釈が変われば、「観念」としての過去は変化する。


これこそ、バシャールの「過去は選択できる」という言葉の意味だと思うのです。


このようにかみくだいて解釈すると、スピリチュアルにおける「いまここ」の重視は、怪しげな神秘主義というより、わりと実践的なマインドセットとして、役に立つもののように思えてきませんか?


「目覚め」「アセンション」、あるいは「悟り」の境地というのは、「いまここ」に立って、過去の記憶の強度を自由に変更できるようになること。


それは、もっと自由かつフラットな視点で、自分の過去に向き合うことができる、可能性に開かれた状態なのではないかと思うのです。





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