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自分/他者の統合とは? 〜 スピリチュアル×哲学で考える


スピリチュアルの世界では、この世界にある様々な二項対立を乗り越え、「分離」から「統合」へと向かうことが目指されます。

その二項対立の代表が、自分/他者です。


こちらの記事で書いたように、私たちの感情や思考、行動のきっかけというのは、本当は、明確に自分/他者のどちらかに区分することができないもの。



それを、あえてどちらかに分類しようとするから(つまり、自分軸/他人軸という対立構造で考えようとするから)こそ、ストレスを抱えてしまったり、対人関係がうまくいかなくなってしまいがちなのではないでしょうか?

だからこそYOKU STUDIOでは、自分/他者という区分が必要ない、流動的な「欲」をうまくつかまえ、生活の指針とすることを目指しています。


つまり「欲、生きる」とは、自他の統合を前提に、人生を動かすモチベーションを形成していく考え方なんです。


今回は、このような自他の「統合」のあり方について、哲学的な視点から捉えてみたいと思います!


注目したいのは、「中動態」という考え方。


哲学者の國分功一郎さんの著書『中動態の世界』で有名になりました。


現代に生きる私たちが当たり前だと思いがちな、自分/他者の区分の曖昧さを浮かび上がらせてくれるこの概念をヒントに、自他が「統合」した状態とは、具体的にどのようなものなのかを考えていきます



・「中動態」ってなに?


中動態とは、古典ギリシャ語などの古い言語に見られる動詞の「態」の一つです。文法用語ですね。


「能動態」「受動態」の区別を、英語の授業で習った記憶のある方は多いでしょう。


・主体(主語)が、なにかを「する」という状態を表す動詞の形=能動態。

 たとえば、「私は、数学を教える」 "I teach math"は能動の表現です。


・主体(主語)が、なにかを別の主体に「させられる」という状態を表す動詞の形=受動態。  たとえば、「私は、(○○に)数学を教えられる」 "I am taught math by ◯◯"は受動の表現です。

私たちは、「する」/「される」という、能動/受動の区別を、言語のレベルから、当たり前だと思っています。


しかし実はこの区別、はるか昔には存在していなかったといいます。



 

中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態である。「インド=ヨーロッパ語」とは、現在の英独仏露語などのもとになった諸言語のグループ(語族)のことで、これに属する諸言語は、古代ーー確認されている限りでは少なくとも八〇〇〇年以上前の時代ーーより、インドからヨーロッパにかけての広い範囲で用いられてきた。 それらの言語がもつ動詞体系には、長きにわたり、能動態と受動態の対立は存在しなかった。その代わりに存在していたのは、能動態と中動態の対立である。われわれは能動態と受動態を対立させる考えに慣れきってしまっているためにこれを不思議なことと思ってしまうが、受動態はずいぶんと後になってから、中動態の派生系として発展してきたものであることが比較言語学によって、すでに明らかになっている。 (中略) しかし、中動態はその後、インド=ヨーロッパ語の主要な舞台から退いていく。能動態と中動態の対立は、能動態と受動態の対立に取って代わられるのである。 (國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』、医学書院、2017年、41-42頁)


 

かつては、インド〜ヨーロッパにかけての広い地域において、能動態/受動態ではなく、能動態/中動態という区別のある言語のほうがメジャーだった。


しかし、それがいつしか能動態/受動態の区別に取って代わられてしまい、「中動態」は忘れさられていったというのです。

この「中動態」というのは、少し説明が難しいのですが…


ざっくり言うと、主体(主語)の行為が、その別の主体だけではなく、主体本人にも影響を与えるような状態を示す動詞の形。


先ほどの例で言うと、「私が数学を教える」時、別の他者に対して一方的に教えるだけではなく、「私」自身も学ぶことになっている時、その動詞はかつて「中動態」として表現された、ということになるでしょうか。


つまり、主語(主体)の行為が、自身とはまったく無関係に、他者に対して行われるのではなく、その後のプロセスに自身も巻きこまれていく場合、使われるのが「中動態」だったわけです。

しかし、現代の私たちの言語には、そのような、する/されるの区分を超えた曖昧な状態を表す表現は、もはや存在しません。


・私たちは「中動態」で生きている?

國分さんは、私たちの言語から「中動態」が消えたことと、「自由意志」および「責任」が重視されるようになったことには、重要な関係性があるのでは?と分析しています。

私たちは、日常生活における様々な選択を、個としての自分の「自由意志」によって行なっていると思っています。


そして、そのような選択のもとに行われた行為は、自分に「責任」があると考えるし、周囲からもそう見なされます。

たとえば私が友達を、「ディズニーランドに行こう!」と誘ったとします。


いいね!行こう!ということになって、日程調整もしてチケットも取って、お互い楽しみにしていた。


しかし当日は土砂降りの雨で、目当てにしていたアトラクションにも乗れず、疲れ果ててしまった。


すると、友達がイライラして、


😡「なんで今日にしたの? そもそもなんでディズニーに行こうって言ったの? 〇〇のせいだよ!」


と、文句を言い出しケンカになった…


これに近いこと、誰しも経験したことがあるのではないでしょうか?

なぜこのようなことが起こるかというと、その友達のなかでは、「ディズニーに行こう」という誘いは相手の意志の表現であり、それに伴う責任を相手が負うべきだ、と認識しているから。

つまり、


 

・私→誘った側…「する(した)」側、能動

・友達→誘われた側…「される(された)」側、受動


 


という構図があるから、このような責任問題が生じるわけです。

しかし、よくよく考えてみると、私たちの日々の選択や行動は、個人の明確な意志によって成り立っているのでしょうか?


むしろ、「なんとなく」の偶然によって、選択・行動していることって多いと思うのです。

先の例で言えば、「ディズニーに行きたい!」と思ったのも、SNSで綺麗な写真を見つけたからとか、職場の同僚との会話のなかで出てきたからとか…


その友達を誘ったのも、たまたま街で会ったからとか、別件でメッセージのやり取りをしていたからとか…


日程に関しては、そもそもお互いの予定をすり合わせたものですよね。


私たちの選択や行動というのは、その時の自分の気分や体調、相手の反応や周囲の環境など、様々な要因に影響されています。


だから私たちは、実は、する/される、能動/受動に単純に分けられない次元で、つまり「中動」的に生きていると言えるんです。


しかし、この現代社会においては、「意志」や「責任」を明確にすることが必要とされるから、そのことは忘れられがち。


このことこそ、自分/他者の分離につながる原因なのではないでしょうか。



・「中動態」を楽しんでみる

YOKU STUDIOが考える、私たちの感情や思考や、行動の基盤となる大元のエネルギーとしての「欲」は、自分/他者の境界を横断するものです。


いわゆる「他人軸」が受動的な生き方、「自分軸」が能動的な生き方だとしたら。


自分/他者の境界がそもそも曖昧なところから、毎日を生き抜くエネルギーを引き出していく「欲、生きる」は、まさに「中動」的な生き方であり、自他の「統合」なのだと思います。

他人軸=受動の生き方も、自分軸=能動の生き方も、どちらか一方に偏ってしまえば、それは自分にとっても他者にとってもストレスを生んでしまいます。


それはきっと、そもそも「中動」的なものを、無理やり二つの項目へと分離させているから。

自分の選択や行動は、実は少なからず、他者や周囲の環境の影響下にある。


だから必ずしも、能動/受動のどちらかに身を置く必要はない。


そう感じてみると、自分/他者の分離の認識があるからこそ生まれる、過度な罪悪感や被害者意識、あるいは攻撃性は、かなり生まれにくくなるように思います。

では先のディズニーの例、今度は私の目線から考えてみましょう。


本来は「中動」であるところを、能動/受動に切り分けて捉えているから、友達は私に対して文句を言ってきたわけです。


でも、その友達の態度に罪悪感(「私はダメな人間だ…」)を感じて落ち込んだり、あるいは形勢を逆転させ、被害者意識(「この人は私をいじめるひどい人だ…」)や攻撃性(「なんて奴だ!そっちの責任だって解らせないと!」)を持ってケンカがヒートアップしたりすると、お互いに苦しくなるし、楽しくないですよね?


それは、自分自身も能動/受動の区別にとらわれてしまっているからこそ出てくる行動なんです。

だから、自分が無理なく楽しめるような、「中動」的な落とし所を決める


友達に文句を言われた。その事実は変わらないとしても、自分がなるべく楽しめる方向に、心のバランスの舵を取ってみるんです。


そのためには、まず能動/受動を区別する思考や価値観や、それに紐づいた怒りや悲しみ、不安などの感情を「手放し」して、フラットな視点に立ち返り、発想の転換をしやすくすることが大切です。




そうすると、たとえばこんなふうな考え方が、すっと浮かんでくるかもしれません。 😌「あー怒ってるな。そうだ、私も疲れてるから、一回休んで新発売のチュロスでも一緒に食べようかな。ちょうど食べたいと思ってたし、そしたら機嫌直るかも!」


…これくらいのラフな感覚で、自分と相手の両方を、被害者にも加害者にも設定せずに、その場をどう楽しむかに意識を向けていけば、ずいぶん人間関係のストレスは軽減されるように思います。


(もちろん、事件・事故など、人の生命に直接的に関わることになってくると、話は複雑になってきます。先日も、痛ましい大事件がありましたが…。このあたりの倫理観の問題も、いつか記事に書けたらいいなと思っています。)

「欲、生きる」とは、自他が統合された「中動態」を生きること。 人生を生き抜く上でのストレスを軽減し、軽やかに毎日を楽しんでいくためには、人間がそもそも「中動」的に存在しているということを再認識することが重要なのではないでしょうか?