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発想の転換で「敵」はいなくなる


今回も、「統合」について考えていきます!

前回の投稿では、それぞれの意見を主張し、お互いの妥協点を探るような「話し合い」は、本来のスピリチュアル的な「統合」につながらない、というお話をしました。

妥協点を目指した「話し合い」の前提にあるのは、「私とあなたは違う」という諦め。つまり自他の「分離」の意識そのものなんです。


その「分離」の意識を持ったまま、なんとか融和を目指そうとするからこそ、お互いにストレスが生じてしまうんですね。


では、その「分離」の意識を乗り越えるために、「私」と「あなた」という区分を無化する(脱構築的)「統合」をするためには、一体どうすればいいのでしょうか?

必要なのは、自分自身の意識の持ち方を変化させること。

今回は、その「統合」的マインドの作り方を、具体的にお伝えします!

・「敵」「味方」を作る意識




私たちは、「敵」と「味方」を作りがちですよね。


たとえば、何か傷つくようなことを言われたり、嫌なことをされたりしたとき。

その相手に対して強い苦手意識を持ったり、遠ざけたり、時には反撃したりするのは、前提に「あの人は敵だ!」というマインドがあるからだと思います。

また、それまで「味方」だと認識していた人が、「敵」になることもあります。


大切なパートナーや家族、友人に、自分が「許せない!」と思うようなことをされると、急にその相手が「敵」として見えてくるんですね。


別れるとか、絶縁するとか、そこまで極端な結果には行き着かないとしても。

些細なことでケンカをする時だって、少なからず相手のことを「敵」として見なしているはずです。



「話し合い」の前提としての「私とあなたは違う」という認識というのは、つまり、「あなた」を「私」とは相容れない「敵」として見なす認識と同じ。


妥協点を探る「話し合い」は、その本質としては、「敵」との和平交渉とイコールなのです。



・「敵」というジャッジを無効化する


人が「敵」「味方」というジャッジをするのは、ある種、防衛本能のようなものと言えるかもしれません。

たしかにそのジャッジによって、自分の尊厳や、身の安全を守ることができるように思えるし、またそれは実際に、何かしらの成果をもたらすこともあります。


たとえば、「自分の能力を馬鹿にした友人たちを見返すために、必死で学んでスキルを手にし、起業して成功した」いうサクセスストーリー。


その背景には、彼らを「敵」とみなし、なんとか一泡吹かせてやろう!という気持ちがあったわけですよね。


けれど、相手を「敵」と見なす意識というのは、自分にとっても相手にとっても、かなりのストレス源になります。


たとえその意識を下支えにして成功者になったとしても、あるいは「話し合い」等によって相手との妥協点を見出し、表面上仲直りしたとしても。

相手を「敵」と見なす意識が根本的に変わっていなければ、そこには必ず、しこりのようなものが残り続けるはずです。

また、「敵」というジャッジは、本来はもっと自由度が高いはずの自分の意識に強いフィルターをかけ、視野を狭くしてしまうものでもあります。

相手が「敵」であるという認識が強くあると、相手との関係性が固定化されてしまうし、そこからの発展が難しくなってしまうんですね。 


その相手とフラットに付き合っていたら見出せたかもしれない、相手のポテンシャルとか、新たに訪れていたかもしれない出会いなどを、その「敵」というジャッジが覆い隠してしまうわけです。 

それって、実はかなりもったいないことだと思いませんか?

本当のスピリチュアル的「統合」は、相手を「敵」「味方」でジャッジする、この「分離」的な考え方自体を無効化すること。 


それを成し遂げるために重要なのが、発想の転換なんです。





・発想を転換してストレスフリーになる




では、どのように発想の転換をすればいいのかというと。

まずは、自分の意識のなかで、相手を「敵」「味方」に分類するジャッジを外す。

その上で、自分が毎日を楽しく歩んでいくために必要な人物として、相手のことを捉え直してみるんです。

つまりそれは、他者の意識を、拡張された自分の意識のように、自分のなかに組み込んでしまうこと、とも言えます。


たとえば、あなたが部屋を片付けないパートナーに苛立って口論してしまうのは、相手を自分の思い通りにならない「敵」としてジャッジしているからだと言えます。

ここで相手を「敵」ではなく、自分にとって「有益な人」、ちょっと俗っぽい言い方をしてしまえば、「使える」存在として認知できれば。

その相手のことをまるごと受容できる可能性が開けてくるんです。

つまり、このような認知の変化です。


【「敵」としての認知】

・片付けができない人 ・だらしない人 ・私に迷惑をかける人

↓     ↓     ↓

【「有益な人」としての認知】

断捨離のきっかけをくれる人 →相手が部屋を散らかしたタイミングを、思い切って大掛かりに掃除し、いらないものを捨て、自分の気持ちをすっきりさせるきっかけにしてしまう。 もしその断捨離の作業のなかで、ためこんだ不用品を発見し、それを整理・売却して多少の収入を得られたりすると、ちょっと嬉しい気分になると思いませんか?

・自分の機嫌や体調のバロメーターになる人 

→相手があまり片付けをしないことは同じでも、それに無性にイライラする日もあれば、それほど気にならない日もありますよね。


もし相手にひどくイライラするときは、「私の心身が疲れているんだな」と判断し、自分自身をいたわってあげる。


自分の精神と身体の状態を把握し、そのケアにつなげていくためのバロメーターとして、相手をある意味で利用してしまうわけです。

・自分の「分離」に気付かせてくれる人

→もしかしたら、あなたが部屋を片付けない相手に苛立つのは、掃除は毎日しなければならない」とか、「部屋は常にチリ一つ落ちていないのが当たり前だ」といった、強固な価値観を持っているからかもしれません。

もちろん綺麗好きなのはけっして悪いことではありません。


でも「ちょっとくらい散らかってる方が落ち着く」という、自分とは違う価値観の相手を頭ごなしに否定するような思いが生じるというのは。


まさに「統合」とは逆の「分離」の運動なのです。

自分が手放した方がストレスフリーに生きられるはずの考え方の癖に気づかせてくれる人、として相手を捉えると、なんだか貴重な人材のように思えてきませんか?

相手を単に自分とは違う「敵」と決めつけるのではなくて、発想の転換によって複合的に捉えてみる。


そうすると、相手を無理なく受容できるだけの心の余裕が生まれます。


まさに「脱構築」的なこの発想の転換によって、「敵」「味方」という二元論を無効化すること。

そのような世界観のなかで、お互いに限りなくストレスフリーに生きること。


それこそが、スピリチュアルが目指す「統合」であり、


自他を超えた「愛」、そして「悟り」の境地なのではないでしょうか?