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スピリチュアルカウンセリングって本当に必要⁉︎⑦【翔哉のひとりごと 第8回】
みなさん、こんにちは!
YOKU STUDIO代表の翔哉です。
スピリチュアルカウンセリングの可能性について考えてきたこのシリーズ。もはやどこに向かおうとしてるのかもわかりずらくなってきましたが、大丈夫です!多分!いや頑張ります。。。
前回までは僕らの意識がどうしても持ち合わせてしまう “世界解釈の圧縮” を乗り越える世界線として、“物語から脱物語へ”というプロセスを論じてきました。
人間にとっての物語生成の原理にもとづく、「人は必ず物語を持たなくてはならない」という限界と、それでもなお物語を解除していくことで見えてくる、軽やかな主体の創発の原理について考えてきたわけです。
では、なぜ僕は、人間の素性としての物語的世界解釈を解除する必要があると考えているのか?その可能性とは一体何なのか?
そこから今回のお話を始めようと思います。
・フィクションを手放した先の「自分らしさ」へ
僕の中でのその可能性とは、シンプルに言ってしまえば、まず、自分が無自覚に作ってしまっているフィクションに気付くこと。
そして、そのフィクションに常に取り憑かれていることを自覚し、それを疑い、時に利用しまた時に決別できる勇気を養うことで、半無自覚的に生成されてしまう(そして自分の認知や人生そのものに強い影響を及ぼす)物語を解除し続けること。
そうやって、自分が自分に騙されている状況に気づき、自分の人生や世界とのインタラクションを決定する権限を、自らのうちに取り戻すことにあると考えます。
そうする中で、自分の世界解釈の認知構造も含めたメタレベルの自分らしさ(「これが真理だ!」という風に、自分の方向性を決め切っているような、わかりやすいオブジェクトレベルの自分らしさではありません)の視点の中で、環境や他者に対して可能な限り柔軟でありながらも、そこに流される訳ではない主体性を生成していけるのではないでしょうか?
つまり、何度解除をしても無自覚に行われる自己意識の物語の生成工程を経験することで、その生成の原理を体感レベルで理解することが可能になり、逆に自らのフレキシビリティのなかでそれを再生成することができるようになるのです。
その時には、世界とのインタラクション、即物的に言えば広い意味での“他者とのコミュニケーション”が駆動される必要を帯びてきます。
どういうことでしょうか?
・物語は、世界の "偶然"を"必然”にするために作られる
人が持ってしまう物語は、何も無秩序に生成される訳ではありません。
僕らの周りを取り囲む多様で複雑な世界からの働きかけが、偶然(ここで言っている “偶然” は物語生成の偶然性とは違い、世界からの私達に対する働きかけの偶然性です)にも、ある種の偏りと反復の経験(わかりやすく言えばたまたま何度も同じような経験をしてしまうこと)もしくは強烈な一回性の経験(事件、事故に被害者として巻き込まれること。これもまたとても残念なことにたまたまの偶然であるとしか言語的に表象できないのですが。。。。)を得ると。
その “固有な経験” (世界の誰もが体験した経験ではない“私”固有の経験)が、無自覚な意識の領域の中で、 “一般的な経験” (世界の誰しもがその現象を体験した時に同じ感情や欲望をもつとするような普遍的な経験)に格上げされ、世界解釈の圧縮としての“物語”が“訂正”されてしまうのです。
※ここで注目したいのがあくまで無自覚に“物語”が“訂正”されることです。
根拠となる経験を、そもそもそれが持っていた固有性を剥奪した上で、あたかも普遍的な経験のように認識しごまかしてしまうことで、人間の認識構造の自己欺瞞性とでも言えるような、イリュージョンが生成される。
そして、この生成の原理が、SRAなどの配信動画でもお伝えしている、“概念的アレルギー”の生成原理そのものなのです。
つまり、物語の生成の原理は、環境からの偶然的・乱数的介入を、普遍法則(=この世界のスタンダード、皆に当てはまる常識)のように仕立て上げてしまうことにあります。
私達は日常生活において可能な限り安全に問題なく生きていきたいと思っているかと思います。(常に危険に身を晒し、その興奮の中で生の実感を得ようとしている人もいるかとは思いますが。。。)
しかし実際のところどんなに注意深く安全に毎日を運用していこうとしても、どうしても外部からの乱数的な介入、予期せぬ出来事は起きてしまうものです。
ただ、人間の素性として、それを無自覚なレベルにおいてさえ嫌っているように思うのです。
なので可能な限り、普遍的な絶対の法則のなかで、どうにか予期せぬ出来事を未然に防ぎ、その脅威からのストレスを避けようとします。
しかし、先にも述べたように、人の認知構造はこの世界のスケールに対してそもそも合っていないため、完全に普遍的で全てを予期できるような認知や物語を持ち得ることはできない。
なので、人は普遍的(に見える)物語を生成することによって、定期的に介入してくる乱数に最適化し、なんとかこの世界のなかでそれなりに生きていけるようにしているのです。
ただ、最終的には、その物語の生成こそが、予期せぬ出来事というものを絶対的に避けられないものにしてしまっています。
本来は、乱数的不幸の介入をどうにか回避したいという意図のもと設計されたはずの物語が、逆に多様な世界を捨象し圧縮してしまうためです…
・物語をフレキシブルにするメリット
そして、人間のストレスや、不幸の感覚、敵対心や対立は、常にこの物語の"変更"のタイミングで起きてしまう現象です。
つまり、自分がこれまで持っていた物語によって、世界に上手く対処できなくなってしまった時に生じるものなんですね。
ですが、原点に立ち返って考えてみれば、そもそも自分が持っていた物語とは、外部からの予期せぬ出来事に対して最適化された、“一時的”“仮固定的”なものにすぎません。
そして厄介なことに、個別的で固有の経験から生成されたはずの物語が、あたかも普遍的で誰にとっても当てはまる絶対的な真理のように、“今ここ”の私の内面世界の中では意識の覇権を握っているのです。
(今時な感じで言えば、“それってあなたの感想ですよね?”ってやつも、ある意味では合っているんですよね。相手を言い負かす「論破」のスタンスではなく、あらゆる物事を、「感想」という偶然的な世界解釈によるものだと捉えるスタンスだとすれば…。
ただそう考えると、完全に数理系の物語に寄せている世界解釈でなければ、全部“あなたの感想”なんですけどね。。。もっと言ってしまえば、数理系の世界解釈ですら、「今のところ正しい」といった仮固定的なものであり、文系理系の区別だって、その仮固定の公理系が違うだけなんだと思います。と僕の敬愛する思想家の方が言ってました。←完全に自分の意見じゃないw)
とするならば、対立や予期せぬ出来事が起こったとしても、このメタレベルの視点に立てるような意識の訓練(先に触れたように、物語の脱物語化→無自覚な物語の生成→脱物語化という行程を何度も経験すること)ができているのであれば、それを自らの意識の中にある、物語構造の生成変化のチャンスにすることができるようになるはずなのです。
※キャリアカウンセリングの領域では、ピンチをチャンスに変える、いわゆる「ピンチャン」状態を、キャリア生成の原理として生かす、"プランドハプンスタンス理論”なるものがあります。
詳しくは以下のキャリアコラムの記事を参照くださいませ。
・他者とのコミュニケーションが物語の多様性を生む
そして、この物語の生成変化のチャンスは何も、予期せぬ出来事からのみ生成されるわけではありません。
物語の最適化の運動そのものは、外部からの既存の物語では回収できない偶然、つまり乱数との出会いによって生じます。
その乱数には、他者とのコミュニケーションも含まれるのです。
他者からのコミュニケーションを通した乱数の介入は、予期せぬ出来事とは違う乱数的性質を帯びています。相手の物語がそこに介入しているのです。
そしてここが重要になってくるのですが、相手の物語の乱数的介入は、相手の“欲望”の介入でもあります。
物語に対してメタな視点を持ち合わせていない人同士であれば、双方共に、「自分の物語が正しい!」と考え、自分自身に騙されている状態にあります。
そしてその、自分の物語の無根拠な絶対的信仰とでも呼べるような、ある種のカルト性によって、双方は対立してしまうわけです。
しかし、メタな視点を持っている主体であれば、たとえ自分の中に相手に対する違和感を認めたとしても、それは相手と対立、闘争する根拠にはなりません。
それを受け入れて物語の訂正可能性として引き受けるか、もしくは複数的な虚の物語の一つとしてストックするか、はたまたその物語を否定しない形で受け流すか…が、選択可能になるわけです。
このフレキシビリティを持つことが、脱物語化後のコミュニケーションにおける、複数的虚数的物語の生成の原理とその可能性だと考えられます。
次回は、そのコミュニケーション的主体の生成過程をもう少し具体的に説明できればと思います!
次回もお楽しみに!!!!!