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スピリチュアルカウンセリングって本当に必要⁉︎⑥【翔哉のひとりごと 第7回】
みなさん、こんにちは!
YOKU STUDIO代表の翔哉です。
スピリチュアルカウンセリングの可能性について、批判的にアップデートしていくという目的のもと、進めてきたこのシリーズ。
前回までの流れでは、ある種の超越的だったり、経験的な世界解釈の圧縮としての“物語”を、“脱物語”化することの意義を考察していきました。
しかし、私たちの世界解釈の圧縮としての“物語”は、世界を把握するための必然性から要請されたもの。
だから、それを完全に脱却することは難しく、仮にできたとしても現代的な日常生活がままならなくなるのではないか…と思います。
そこで、前回、最後の方でも触れたような“可能性としての自分”や、想像力の中の“複数の可能性としての自分”という考え方が重要になってきます。
どういうことでしょうか?
・スピリチュアルは 一つの"物語"を生む?
もう一度整理していきましょう。
私たちは、この複雑で多様な世界をそのまま“完全”に把握して(直感的に)未来を予測したり分析できるほど、瞬間的に正確な認知は持ち合わせていません。
(皆さんも直感的な判断や、数理的な分析を抜きにした予測に頼ると、しばしば間違えますよね?。。
もしかしたら一回も即物的で直感的な判断を間違えたことがないっておっしゃる猛者がいるかもですが。。少なくとも僕は間違えまくってます w)
そもそも、私たちの認知構造自体が、世界の複雑性や多様性を受け入れることができるような器の大きさをもちあわせていない、と言った方が直感的にわかりやすいかもしれません。
そこで私たちの認知はどうなるかというと、認識する対象のボリュームや容量があまりにも大きすぎるので、圧縮と単純化によって、“世界はこんなものだ”とある意味自分が自分を騙すような形で、決めつけていきます。
それがこのシリーズを通して語られてきた、“物語”に当たる部分です。
ここまでくれば、それがない状態、つまり“完全”な“脱物語”化を、長期的・永続的に保つことは難しいというのはご理解いただけたかと思います。
しかし中には、「それこそブッダが理想とした解脱状態であり、理想的な状態なのでは?」、「そこに私たちの想像を超えたような意識の状態があり、そこにおける境地こそ私たちが目指すべき究極の目標なのでは?」と思われる、読者の方もいらっしゃるかとは思います。
ここは明確に論証することは難しいのですが、僕のカウンセリングのクライエントや、クラスの生徒さんたちと、長期にわたりマンツーマンで向き合い、サポートしていった経験からすると…
“私たちの想像を超えた境地”を永遠に持ち続けることは不可能な気がするし、またたとえそれに到達できたとしても、現世において肉体を持ち合わせた状態では、物質的にも精神的にも、豊かな経験には至れないのだろうと思います。
あるいは、少し違う角度からアセンションした主体の状態を検証するために、完全なアセンションを達成したとされる、もしくはチャネリングによってその理想的な状態を提示している、現代のチャネラーやカウンセラーの方々の予言やチャネリング情報を見てみると…
たとえばこんな言説があります。
“人類が個々の周波数を手放し、一喜一憂のドラマ(物語)から目覚め、アセンションする人口の数が臨界点に達することによって20XX年にオープンコンタクト(宇宙人とのコンタクト)が始まる!!!”
…勘の良い読者の方ならお分かりの通り、この話は、ほとんどが語彙矛盾みたいになってしまっているように思うのです。
“個々の周波数を手放し、一喜一憂のドラマ(物語)から目覚め”と言いながら、“20XX年のオープンコンタクト”という壮大なドラマのゴールに向かっている、というのはなんだかよくわからない状態になってしまっています。
(これもまた、「オープンコンタクトというのは常人の想像力を超えたものすごいドラマで、一般人の持つようなドラマとは違うんだ!」と言われれば反論はできませんが…
でももっと言ってしまえば、そもそもアセンションしてオープンコンタクトしたいでしょうか?少なくとも僕はあまり興味がないです。。)
2023年現在で、主に流通しているこの手の言説(その他では、「目覚め覚醒することで自らの望みを引き寄せられるんだ!」という開運・願望実現系や、「アセンションに至る契機としての男性性/女性性の統合としてのツインレイの行程を経ることで、究極の魂のパートナーとの統合や出会いを果たせるんだ!」等のツインレイ言説は、”脱物語”を通して素朴な願望を叶えるというかなりアクロバティックなレトリックで消費者のドラマ性を強化していきます)は、“脱物語”の先の“超物語”(オープンコンタクトという大きな物語?)に回収されていくか、あるいは「願望実現」や「パートナーと結ばれる」という素朴な“物語”に、“脱物語”がなかばずっこけるような形で回収されていきます。
ということは、現代(特に日本)のアセンション言説は、“脱物語”の徹底の先には、ある種の単一的な“物語”(オープンコンタクトとしての“超物語”にせよ素朴な現世利益としての“物語”せよ…)に回帰するしかないということを、逆説的に示していることになります。
人はつまるところ、誇大妄想的な“超物語”にせよ、現世利益的な素朴な“物語"にせよ、何かしらの形で“物語”を求める生き物だということが、暗に示されてしまっているのではないでしょうか?
・生身の人間はブッダの「解脱」に至れるか?
では、アセンションの原型と考えられるような、ブッダの"解脱"や"涅槃"を考えてみるとどうでしょうか。
ブッダは、“我”(今まで使っていた言葉で表すならば、自分に対する認知を含めた“物語”)を手放すことで、輪廻の輪から逃れ、解脱・涅槃に至ります。
しかしそこで注目すべきは、ブッダの至った涅槃とは(細かな専門的知見は色々とあり、雑な議論になってしまいますが)、つまるところ“この世に人として現れた仏の肉体の死”という意味を指す言葉であることです。
これもまた雑な簡略化をしてしまえば、ブッダの目指した涅槃・解脱とは、肉体を持って生きながらにして至る境地ではなく、我や煩悩としての“物語”を手放し、肉体における死を表す“脱肉体”化のプロセスと言うことができるのではと考えます。
先述した通り、僕の考える現代的なアセンションとは、肉体をもちながらにしての悟りのプロセスであり、それを通して獲得できるクリエイティブな人生の豊かさ、であると考えています。
その前提で考えるならば、“脱肉体”化を前提とした旧来的な悟り・涅槃のプロセスは、はなから僕が想定している理想的なアセンションとは違うということになります。
ここで、再度整理していきましょう。
古典的アセンションとしてのブッダにおける悟り・涅槃は、肉体を保持しながら悟りに至ると言う現代スピリチュアリズムの中で語られるアセンションと、(ある種、僕の主張でもありますが)前提となるレベルから、“脱肉体化”を主題的に扱うか否かによって違う議論となっています。
つまりは“脱物語”をある種徹底した涅槃は、現代におけるアセンション言説とは根本的に違うものであると言うこと。
けれども先述したように、現代スピリチュアルにおいて目標とされるアセンション後の主体性は、オープンコンタクトなどの“超物語”や、現世利益的で素朴な“物語”に回収されてしまいがち…肉体を持ちながらの悟りとしてのアセンションは、最終的にある一定の“物語”を想定しなくては、この世界をサヴァイヴできないということを、逆説的に示してしまっているのです。
つまり、わたしたちは肉体を持っている以上、いわば限りなく“死”に近い形での“脱物語”を経験してもなお、ある種の生の欲求(欲動?)を発動し、また“物語”(超物語も含む)に帰結してしまうのです。
・0と1の間には無限がある
ここで、"0"と"1"、という比喩を持ち出してみようと思います。
完全な“脱物語”としての0
どこまでいっても結局“物語”に戻ってきてしまう“物語”としての1
という構図を想定するならば、僕の想定するアセンション的主体とは、0と1の間を行ったり来たりする運動性を持ち合わせています。
でもここで考えてみたいのです。
整数的な解釈(小数点以下は考えないシンプルな解釈)においては、0と1の間には、2つの主体しかない。0と1という2つの数字です。
しかし0と1の間に、実は、"実数"的な無限性がある、としたらどうでしょう?
実数とは、小数点以下も含めたあらゆる数のことです。たとえば、0と1の間に、0.0001や、0.08など、実はたくさんの数が存在します。
ここに注目したいのです。
つまりは、脱物語と物語(超物語も含める)の間を行ったり来たりするグラデーションのなかに、無限の可能性があると考えてみるんです。
そして、その無限の可能性を、自分自身のバリエーションとして捉える。
日によって出力を変えるスピーカーのように、自分自身をフレキシブルに変えることができるとしたらどうでしょうか?
・想像力としての"虚数”を生かす
そして、実は0と1の間には、実数的(直線的)無限性だけではなく、その方向性の無限性、つまり物語のストーリーライン(世界線)という方向性やベクトルにおける角度の無限性も持ち合わせています。
たとえば、実数軸に直交する虚数軸で展開された複素数平面には、色々な方向に伸びる0→1の矢印を書くことができる。
虚数とは、非常にざっくり言うと、想像上の数のこと。
つまり、想像力をうまく用いることで、主体の色々な方向性を発見し、指し示すことができるわけです。
これはあくまでメタファーとしての連想ゲームですが…実数軸(一つの直線)上に乗っている0→1の矢印を、“今ここ”の肉体にインストールされている物語だとします。
そこに虚数軸が交わった複素数平面上で、0→1の矢印がくるくると風見鶏のように回転すると、それが実数軸からずれるようにして虚数軸方向に伸びる。
それが先述した、複数の可能性としての物語だと考えます。
それではこの、虚数軸方向に伸びた0→1の矢印とは、一体何を意味するのでしょうか?
実数軸上に乗っている0→1の矢印は“今ここ”の肉体にインストールされている物語です。
一方で虚数軸とは、虚の“物語”。
つまり虚数軸上の0→1の矢印とは、未だ現前化されていない想像力のなかに存在する物語(まるでニュートン力学のエネルギー保存則における、未だ物理的に現れず、物質に内在しているポテンシャルエネルギーのように?)だと定義することは、無理のないメタファー的解釈かと思います。
肉体を持ちながらにしての物語は常に(短いスパンでコロコロ変わるとして)、いかなる時も1つしか持ち得ない。
しかし、想像力の中では複数の未来を措定し、その想像力の中にある複数の“物語”を、適宜肉体のなかで交換し続けることができる状態が、僕の考えるアセンションした主体のあり方に近いと考えます。
基本的には一つの物語しか受容できない肉体を有していても、想像力のなかでは複数の未来を想定できる。
そしてそれを適宜肉体にインストールしていくことで、より豊かな経験を達成可能にすると言う主体のあり方です。
ここで、「それって、この前の記事で言っていた”ジプシーパターン”とどう違うの?」って思う方もいるかと思います。
”ジプシーパターン”とは、占いやスピリチュアルや自己啓発の領域で、あるメソッドに一度は心酔しながらも、うまくいかなくなるとそれをすぐに捨て、別のメソッドを信じるようになるタイプのこと。
一見、彼らも複数の"物語”を持っているようにも思えますよね。
しかし、僕が考えるアセンションした主体と、”ジプシーパターン”の人々との間には、明確な違いがあります。
”ジプシーパターン”の人々には、想像力の幅がないのです。
ある一つの信念を絶対的に信じていて、それがうまく機能しなくなったら、別の信念へ移る彼らは、自分の想像力のなかで、複数の可能性を保持し、それを使い分ける、ということはあまりありません。
でも、アセンションした主体は、想像上の物語を常に複数持っていられるし、それを肉体側に(1として)フレキシブルにインストールできるのではないか、と思うのです。
では、私たちがこのような主体になるためには、一体どうしたらいいのか?
そこで次回は、想像力における複数の物語の生成原理を、“コミュニケーション”と結びつけて明らかにしていきたいと思います。
次回もお楽しみに!!!!!