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かぎりなく物質的で、はてしなく宇宙的な、私たちの「こころ」 〜 三木成夫『内臓とこころ』読書感想文


みなさん、こんにちは。

11月半ば、もう冬も間近ですが、まだまだ「読書の秋」ということで…!
YOKU STUDIOも、「読書の秋2022」に参加させていただこうと思います。

読んだのは、三木成夫『内臓とこころ』(河出文庫、2013年)です。

「『こころ』はどこにある?指差してみて!」と言われたら、あなたはどこを指差しますか?


頭(脳)を指差す人もいるでしょう。でもそれと同じくらい、胸(心臓)を指差す人もいるのではないでしょうか。


科学・医学技術が発展し、「人がものを考える場所は脳である」ということが一般常識となった今日でさえ、「こころ」を心臓に、すなわち身体器官の一部としての「内臓」に結びつける想像力は、私たちのなかにたしかに生きているんです。



本書を読み進めていくと、その想像力はあながち間違いではない、ということが分かってきます。


解剖学者・三木先生の飾らない軽妙な語りぶり(保育園での講演が元になっています)を通して、「こころ」の拠り所としての、私たちの「内臓」のポテンシャルが解き明かされていく様子は、とてもスリリングでワクワクします!





・"あたま" と "こころ" は違う!




まず注目したいのは、三木先生が語る、"あたま" と "こころ" の違いについて。


日本人は、"あたま" と "こころ" をゴッチャにしている、というのが、先生の考えなのです。



 


これは、どうも日本人の特徴らしいのですが、たとえば「精神」という言葉が、ある時は "あたま” ある時は "こころ" の意味に用いられる。心情と同義です。だから "こころ” もとうぜん "あたま” の意味に用いられても不思議でない。例の「心貧しき者は幸」とか「無心」などといった時の「心」は、これはもう明らかに「自我」すなわち  "あたま” の世界をいったことになるでしょう。 これまでの心理学のことは、正確には知りませんが、全体の印象としては、どうも「自我意識」の分析か、あるいは「感覚生理」の実験といった色合いが濃いように思われる。心理学ではなく、なにか "脳理学” とでもいえるようなニュアンスなのですね……。(p.97-98)


 


この指摘は、かなり示唆的だと思いました。


私たちは普段、自分がいまどのようなことを感じているか、どのようなことを考えているかを、"あたま"=「脳」で記号化・言語化することによって意識している。


けれども実は、その "あたま" の働きとは違うところにこそ、 "こころ" は宿る。



たとえば私たちは、「悲しみ」という感情を、様々な異なる場面で感じますよね。


友達にひどいことを言われた時、恋人と別れた時、大事な物品をなくした時…


それぞれの場面で感じていることが、"あたま" において、「悲しみ」という一つの記号・言語に集約されるからこそ、「私はいま、悲しい」ということを意識することができるわけですね。



しかし、その背景には、私たちが普段見過ごしがちな感覚があるんです。


それこそが、「内臓感覚」です。


友達と喧嘩した時を思い出してみてください。


胸のあたりがずーんと重く、そこにザワザワと風が吹き荒れているような感覚になった。そんな経験、ありませんか?


"あたま" の働きによって「悲しみ」という記号・言語に集約されるゆえに忘れられがちだけれども、私たちは常にこのような非常に身体的、内臓的な感覚とともに生きているわけです。


三木先生は、このような「内臓感覚」こそ、"こころ” の源泉だと考えるのです。





・内臓感覚は宇宙的⁉︎




人はふだん、この「内臓感覚」をあまり意識していません。


しかし、たしかにそれは、私たちに影響を与えている。特に、「食と性」の領域において顕著です。



なぜ人は、一定の時間ごとにお腹が空くのか?

なぜ人は、夜になると眠り、朝になると起きるのか?

なぜ女性の体には、毎月の生理が起こるのか?



それは、私たちの生が、「からだに内蔵された食と性の宇宙リズム」(p.98) から強く影響されている証なのだと、本書では語られています。



 


 これは、しかし考えてみれば、すべての生物に共通する「生のリズム」そのものです。しかも、それは根原のリズムです。このリズムにのっとって、植物も動物も、その生を営むわけですが、動物の世界では、そうした本来備わったからだの機能のことを「本能」と呼び馴らわしております。ですから、ここでは、動物の心といえば、それは動物の本能と置き換えることができる。(p.98-99)


 


つまり、人間の "こころ"の源泉としての「内臓感覚」は、それはすべての生物に備わっている「本能」そのもの。


それはまさに、地球という天体の運行と連動したバイオリズムです。


一人の人間の身体のなかでうごめく物質器官としての「内臓」が、実はすべての生物と、そして宇宙とつながっている…!


このようなミクロとマクロの意外なつながりこそ、三木先生の主張の面白さなのです。



 


皆さん、いま窓の外ではススキの穂が輝いていますね。昨日も子ども連れで郊外の田んぼに行ったら、このススキの波です。それにイナゴが盛りが過ぎて、そして赤トンボも力がなくなって……。こういった周囲の風物詩から、秋の深さがしみじみと感じられる。問題はここです。つまり、この感じは、大脳皮質の "細胞の放電” なしには起こらないでしょう。しかし大切なことは、そのまえに "はらわた”の共鳴の現象があった、というこのことなんです。赤トンボが飛んでいるから秋。サクラの花が咲いているから春。これは、あくまでも "あたま"で考えること。ほんとうの実感は "はらわた” です。文字通り、肚の底からしみじみと感じることです。(p.106)


 


ここで、「季節感」を例にとって説明されているのが、私たちの「ほんとうの実感」というのは、 "あたま"の働き=「大脳皮質の "細胞の放電” 」だけではなく、それ以前の「内臓感覚」と共鳴して生じるものである、ということです。


「腑に落ちる」という表現が、文字通り言い表しているように、私たちが何かに深く感じ入り、それを理解するときには、必ず内臓との共鳴があるのです。


人は "あたま" で考える生き物である。けれど、それだけでは "こころ" は成立していない。


「内臓感覚」という宇宙のバイオリズムが、私たちの "こころ" の基底にあることを、本書は思い起こさせてくれます。







・"こころ"の物質面を意識することの大切さ




本書を読んで、深く考えさせられたこと。


それは、情報化社会と言われて久しい現代における、私たちの "こころ" のあり方についてです。



昨今はテレワーク、オンライン授業なども一般化し、身体を動かす機会は減り、私たちはますます「内臓感覚」を意識しづらくなっています。


心身症や精神障害に悩む人が増え、"こころ" の問題を考えることの重要性がかつてなく高まっている一つの要因としては、現代社会が "あたま" 偏重であり、物質としての身体を十分に考慮していないことがあるのではないでしょうか?



"こころ" の問題を扱う領域として、一般的に認識されているのは、心理学、精神医学、あるいは自己啓発、スピリチュアルや宗教などではないかと思います。


しかし、これらの領域が分析し、治療をほどこす、あるいは改善をうながす対象としているのは、主に "あたま" の問題、つまり、かなり意識化された「自我」の問題であることが多いのです。



たとえば、「不安が強く、すぐ泣いてしまう」という症状がある人に対して。


心理学や精神医学では、その症状の原因となっている特定の出来事(仕事や恋愛、対人関係の悩みやストレス、幼少期のトラウマ etc…)、あるいは認知のクセ、脳機能の異常などを突き止め、そこに対してアプローチをしていくのが基本です。


そのアプローチのバリエーションが、精神分析、認知行動療法、投薬治療などと言えます。自己啓発、スピリチュアル、宗教なども、そのような症状の原因を突き止めることを、症状解決のベースとしている点では一緒です。


そこでは、症状の原因として設定されるもの、そしてそれを解決するための施術が、独自の成功哲学や、神秘主義に基づいているのです。



もちろんこれらの領域が、意識化された「自我」だけを扱っているわけではありません。


たとえば「無意識」、「潜在意識」、「集合意識」など、個人の認識を超えたものを想定し、分析に役立てることは多々あります。


でも現在、これらの言葉は、いわゆる「普段気づいていない自分」、「本来の自分」、「神秘的な自分」のような意味合いで使われていることが多いように思うのです。


本来、「無意識」(あるいは「エス」)を発見したジークムント・フロイトはそれを、かなり身体的な、統御されない欲望の集積として捉えていたのですが…


その意味で、やはり現代社会において "こころ"を扱う領域が、"あたま" 重視の理論から成り立っていることは否めません。



私たちがこの地球に、身体を持って存在しているかぎりにおいて、私たちの "こころ" には、その根源としての身体、そして深奥にある「内臓感覚」の響きが、常に轟いている。


だから、それを忘れずに、自分がまさに "はらわた" からリラックスし、心身ともに充実感を得られるようにしていくことが、人生を楽しむ上での重要課題なのではないでしょうか。



本書に記された三木先生の言葉から、"あたま" だけではなく、もっと物質レベルで "こころ" を捉え、そこにアプローチしていく必要性を、ひしひしと感じました。


この読書経験を通して、YOKU STUDIOのコンセプトである「欲、生きる」を、 "あたま" レベルだけではなく、"はらわた" レベルでの「欲」も重視して理論化・サービス化していきたいと、目標を明確化できたのも、大きな収穫でした。



(ちなみに、本書のインパクトある表紙は、受胎38日目の人の胎児の顔貌です。フカ(サメ)のような顔ですよね。


ここから三木先生は、母胎における胎児の成長とは、古生代〜中生代〜新生代における脊椎動物の進化という、四億年にわたる壮大なスケールのドラマの再現に他ならない、と論じているのです。


生命・宇宙のバイオリズムが、私たち一人一人に、DNAレベルで確実にインストールされていると思うと、恐れ多いような、こそばゆいような、不思議な感慨が湧いてきます。)



"あたま" 偏重の現代社会に生きる私たちに刺さる、たくさんのメッセージが詰まった書籍だと思います。


みなさんもこの本を読んで、かぎりなく物質的で、はてしなく宇宙的な、私たちの 「こころ」について、じっくり考えてみませんか?




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