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おもいやりとケア


「相談ってなんだろう?」
形を変えながらも通算20年近く従事してきた対人援助業務から離れて約半年、それ以降何度もこの質問を自分に投げ掛けています。


そこで以前少し触れた「ケアとセラピーについて」。ネットでほんの少し知った情報だけで意見するのは大変失礼だと反省し、特に今注目されている東畑開人さんの本を一冊読んでみました。今回はその感想文です。




















自分がやってきた事や、知らないうちに身に付けてしまった「こうあるべき」を一旦脇に置いて、真っ新な気持ちで素直に読んでみようと努めました。キャリアについてではありませんが、もしご興味あればさらりとでも読んで頂けたら嬉しく思います。








・専門家から見たふつうの相談







私が手にした「ふつうの相談/金剛出版」は、一般大衆へ向けたものというより、対人援助に関わる人たちへ向けて書かれている印象です。


この本で、筆者は臨床心理士でありながら、精神分析的心理療法だけがケアではないと言います。


相談の発端は、人間関係や家族の問題等、日常交わされるありふれた相談からで、それらは友人や隣人といった身近な人たちのアドバイスでたいてい解決されていきます。


または、特定の場所(学校や会社など所属するコミュニティ内)で生じた悩みは、その場にいる経験豊富な先輩やメンターのアドバイスが一般的な助言より有効な時もあります。しかし、身近な人たちのアドバイスでは解決できない限界がやってきた時、専門家へ相談するという選択肢が現れるというのです。


だからといって、必ずしも相談に訪れたすべての人に精神分析的心理療法が必要かというとそうではなく、相談内容によっては、身近な人ではない第三者(専門家)のアドバイスで問題が整理され解決に至ることもあれば、それでも解決できない問題(自分の専門外)が発覚した時は、他機関へ連携することもあります。


専門職によるアドバイス(学派知)、所属するコミュニティ内で交わされるアドバイス(世間知)、身近な人間関係の中で交わされるアドバイス(現場知)、それぞれが「ふつうの相談」の根っこになっていて、どれか一つが優れているという話でもなければ、単独で機能するものでもない。この3つを相対化し、閉鎖的にならず活発に交流していくことこそが、人と人がつながり、支え合うのだと伝えたかったのだと思います。


確かにかつての対人支援の業界は棲み分けがはっきりしていました。自分の専門性に固執してしまうと、困難ケースに遭遇した時、自分には力量がないと錯覚・落胆し、何とかしようとつい足掻こうとしてしまいます。それが結局クライエントの問題解決の妨げになることもあります(私の若かりし頃の苦い経験です)。この本には自分の職域を把握し、役割を果たすことの大切さも書かれています。


各専門領域の垣根を取っ払っていこうとする筆者の言葉は、対人支援業務従事者の方々にとっては基本と同時に理想であり、また業界全体が変わっていくことに対する期待と希望にも感じられる内容だと思いました。ここまでが現場従事者としての感想です。


そしてここからは対人援助の現場から離れた一般の読者として感じたことです。








・「ケア」という言葉が持つやさしさと不自由さ







本書の中で、ふつうの相談とは、友人や同僚、家族などの間で日常の中で自然に交わされている素人的なケア(援助)のことだとあります。専門家が「ふつうの相談」を分析・定義すると「確かにそれもケアと言えるのかも」と理解できました。


対人援助の現場から離れた今の私は、他者から相談を受けることや他者に対して手を差し伸べることを、「ケア」だと強く意識しなくてもいいかな、と思っています。


今は時間やお金を掛けなくても、最新の情報がすぐに手に入ります。専門家によって一般大衆に向けに書かれた本は若干敷居が低く感じられて読みやすく、学びの入り口にもなっています。向学心のある人は、それらで得た知識をすぐに実践に移すでしょう。ですが、専門家ではない一般の人が友人から相談を持ち掛けられた時「私は今ケアをしている」と気負うことはないと思います。


脇道に逸れますが、今私は足を痛めて杖を使用しています。電車に乗り込むと杖をついた私に気付き、席を譲ってくれようとする人も思いのほか多く、日本もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思います。いつものように電車に乗り込むと、目の前の若い男性が疲れ切った様子で、座席に身を預けていました。ですが、私に気付くとはっとした表情で席を譲ってくれようとしました。その様子がとても自然だったので、きっと日頃からそういう気遣いができる人なのだろうなと思いました。一見ハンデがないように見えても、もしかしたら体調が悪いのかもしれないし、慣れない仕事でくたくただったのかもしれない。私は降りる駅がそう遠くなかったので、感謝の気持ちとすぐに降りる旨を伝えて、彼の申し出を丁重にお断りしました。


この様子は専門家の立場なら「ケアをする人/される人」として定義することができるかもしれません。「周囲に配慮しましょう」という啓発が広がることは素晴らしいことですし、それらが意識せずとも自然に行えたら理想的です。ですがこれが自分の心と一致せず「配慮すべきだ」「ケアすべきだ」と気負ってしまうと、両者をひどく不自由にしてしまう気がします。


一番大切なのは自分の気持ちです。「配慮すべきだ」が強迫観念のようになってしまうと、相手に自分の好意を受け取ってもらえなかった時、「せっかく配慮してあげたのに」という不満にもなりかねません。配慮が不要と言いたいのではなく、特別な配慮やケアをしなくても、人と人とのつながりは「何をしたか」だけではなく、相手に関心を持つことでも成り立つのではないかと思うのです。


あまり言葉に縛られすぎず、その時自分ができる行動をする。


「傘がなくて困っているみたい。自分は予備の傘があるから貸してあげよう。」「ひどく落ち込んでいるようだけど、今は声を掛けない方がいいかな。」「(小さい子供が)転んじゃった!すぐにでも手を差し出したい!でも一人で立とうとしているから、まずは様子をみてから・・・」


気負いすることなく、ただそこに居ることも大枠で見たら「ケア」なのではないか、と今の私は思うのです。







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