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「愛」は「情」じゃない? 〜 「愛情」を解体してみる。


日本語には、「愛情」という言葉がありますよね。

「情」というのは、人間の心の動きのこと。喜びや悲しみ、感動などといった、心が揺さぶられるような、とてもエモーショナルな(いわゆる「エモい」)感覚です。

それは特に、恋人や家族、友人、同僚など、関係性が近い人々との間にある、特別な絆のことを指します。


この「情」と「愛」とがくっついて「愛情」という言葉でひとくくりにされることが多いからこそ、私たちは、「愛」というものを、感情や絆と結びついたものとして考えがちです。


「好き」、「大切だ」、「一緒にいたい」、「守りたい」、あるいは「かわいそう」、「私が側にいてあげなくちゃ」…。


私たちが特別な他者に対して持つこういった「情」を純化して、その対象を多くの人々に広げていった先に「愛」がある、という認識を持っている方は多いのではないでしょうか?


だからこそ「愛」というのは、とても崇高で、手の届かない境地のように見えてしまいます。


しかし、このnoteでシリーズで考えてきたように、「愛」というのは、特定の感情や絆に結びついたものではないし、私たちにとってとても身近で、誰もが持っているようなエネルギーなんです。


今回のテーマは「愛情」の解体。


「愛」と「情」との違いを明確に示すことで、単なる理想論におちいらない、「愛」の可能性を追求します!







・「情」は関係性から生まれる




「情」という言葉の辞書的な意味は、このようなものです。



 

じょう〔ジヤウ〕【情】 1 物に感じて動く心の働き。感情。 2 他人に対する思いやりの気持ち。なさけ。人情。 3 まごころ。誠意。 4 意地。 5 特定の相手を恋い慕う気持ち。愛情。また、特定の相手に対する肉体的な欲望。情欲。 6 事情。いきさつ。 7 おもむき。味わい。趣味。



 

(デジタル大辞泉より)


このなかで、私たちが一般的に馴染み深い「情」の定義というのは、2と5ではないかなと思います。


そもそも、誰かに対するこのような「情」というのは、その誰かとの関係性を特別視しているからこそ生まれるものではないでしょうか?


相手に対して何らかの心の動きを感じたり、何らかの働きかけをしようとする時に、「これは、私とあなたが〇〇という特別な関係だからすることだ」という考え方が結びつくと、それは「情」になります。


たとえばあなたが、嫌なことがあって落ち込んでいるパートナーを、どうにかして励ましたいと思った時、「この人は私の彼氏(彼女)だから、自分が元気づけてあげたい」というような思考が働いたなら。


あなたは、その相手との関係性が特別に親しいものであることを、自分の行動の根拠と見なしているため、その感覚は「情」だと言えます。


「私とあなたは〇〇だから」と、両者の特別な関係性を固定化することで見えてくるものが、「情」と考えられるわけです。


だからこそ、「情」というのは、時に、関係性への「執着」にも結びつきやすくなります。


「誰かをあわれんで助けてあげる」ことを「情けをかける」と言いますが、この「情け」は相手を自分にとって特別で重要な人だと考えているからこそ(あるいは相手も自分と同じように考えていると想定しているからこそ)成立するもの。


この「情け」が相手に思うように伝わらなかったり、自分に対する感謝の気持ちや行動が返ってこなかったりした時に、「恩を仇で返された!」と感じて、いらだってしまうことがあるのは、相手との関係性に対するある種の「執着」が、そこに介在しているからです。


自分と相手の特別な関係性を固定化することは、言い換えれば、自分との関係性というフィルターを通し、相手を明確な「他者」として定義すること。


つまりそれは、自他の区分を強化することと同じであり、自他の区分なき「愛」とは真逆の運動に他なりません。





・「愛」は「情」に先立つ





私たちは普通、誰かに対する気持ちや行動というのは、その相手が自分にとって大切な人だからこそ出てくるものだと考えます。


しかし実際、私たちが誰かに対して意識を向け、行動を起こす瞬間、その誰かとの関係性を特別に意識しているでしょうか?


たとえば、偶然に街で出会った人が困っている時、それが見知らぬ人であっても、反射的に手を貸すことってあると思います。


また、人命救助をした功績で表彰された方のニュースを見かけたこと、ありますよね?


彼らの多くは、「人助けをした」というより、「反射的に体が動いた」という実感を語ります。


そのような時というのは、「相手が気の毒だから助ける」とか、「相手も同じ人間だから見過ごせない」とか、そんなことを感じたり考えたりする余裕もないはずです。

私たちの意識や身体を動かすエネルギーというのは、必ずしも、自分と相手との特別な関係性から生まれる感情や思考をベースにしているわけではないのです。


ある瞬間に、主体としての自分と、客体としての他者という区分がなくなって、感情や思考の介在なしに、エネルギーが回り出すような感覚。


実は、それこそが「愛」の感覚なのではないでしょうか?


つまり、「愛」というものは、自分と他者との特別な関係性を想定するものとしての「情」に先立つものだと考えられるわけです!









・「愛」とは本能である




スピリチュアル的に考えれば、私という存在と、たくさんの他者、そしてあらゆる人々を包み込むこの世界、この宇宙というのは、すべて同一の存在です。


その同一の存在のなかを循環するエネルギーこそ「愛」であり、それは自然に備わっているもの。


そのように考えると、「愛」というのは、とても自然状態に近い、動物的な本能のようなものに見えてきます。


(もちろんそれは、「食欲」「性欲」「睡眠欲」といった、身体的な欲望を満たす本能とは、質が違うものですが…)


しかし普段の生活のなかで、自分という主体を中心として他者や世界を認識し、感情や思考を働かせることに慣れている私たちは、そのような本能としての「愛」をうまく認識することができません。


だからこそ、「愛」を「情」に結びつけようとします。

人間の意識や行動原理を、感情や思考ベースで説明したくなるんですね。


たとえば人命救助をした方を、「他者に対する思いやりがある」「正義感が強い」人であると評価する時。


私たちはその人の行動を、自他の区分のない本能的なエネルギーとしての「愛」に基づくものとは考えず、感情や思考に基づくものとしての「情」に結びつけて、解釈していると言えるのです。


人命救助のヒーロー(ヒロイン)も、マザー・テレサやガンジーのような聖人も、たしかに「愛」に満ちた人々です。


しかし、彼らのような「愛」に満ちた人々になろうとして、「他者をあわれむ心を持ち、正義感に基づいた行動をする」こと、つまり「情」に基づいた意識や行動の規範を自分に課すと、かえって「愛」から遠ざかってしまうように思います。

彼らの素晴らしさはむしろ、特定の感情や思考をベースとせずに、本能としての「愛」を、シンプルに表現したことにあるのではないでしょうか?

「愛」とは、きっとほんとうは、誰しもが潜在的に持っている、とても本能的なエネルギーなんです!




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