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「いまここ」の奇跡を感じて。


最近、「これは奇跡だ!」と感じたような出来事、ありましたか?


「半分諦めていた、憧れの仕事に就くことができた!」、「もう会えないと思っていた、大切な人に会えた!」といった、大きな出来事も。

あるいは、「朝、きれいな虹を見た!」、「たまたま買ったパンがすごく美味しかった!」といった、小さな出来事も。


良い意味で期待が裏切られるような、想定外の出来事が起きた時、私たちはそれを「奇跡」と感じますよね。


ちなみに、私自身の最近の小さな「奇跡」は、人が溢れる街中で、空をふと見上げた時、ものすごく壮大な飛行機雲を見たことです!)


前回は、人が「神様」のような高次元の存在を信じる理由と、アセンション期における「神様」の捉え方について、お話しました。



「神様」というと、なんだか宗教的なものに感じてしまうかもしれません。


けれど、現代スピリチュアルにおける「神様」や高次元の存在というのは、私たちが日常を生きるなかで、ふとした瞬間に感じる「奇跡」そのもの、と言っても良いと思います。


つまり、「奇跡」を感じる、という経験自体が、高次元の存在とのコミュニケーションと同じ役割をもっているんです!

どういうことでしょうか? 


じっくり解説していきますので、ぜひ最後までお付き合いください。





・「奇跡」=意識の拡張


私たちが、「奇跡」と感じる出来事というのは、多かれ少なかれ、自分自身の認識を超え出すような出来事だと思います。


・「絶対無理だ!」

・「普通に考えて、そんなことあるはずがない…」


このような自分自身の思い込みやジャッジが揺らいだ時、そこには「奇跡」が生まれます。


つまり、私たちが「奇跡」を感じている時に起こっていることは、自分自身の意識の拡張なんです。

人は日常生活において、「予想内」のものとして世界を解釈しようとしがちです。


・「これまでずっと○○だったんだから、これからも○○に違いない」

・「前回は××だったし、今回だってどうせ××だろう」

・「統計的に考えて、△△になることが正解だ」


このような考え方は、原因-結果の因果律から来る「予想」のフィルターを通して、世界を見ている態度ですよね。



しかし、私たちが生きる「いまここ」は、実は因果律だけで解釈できるものではなく、偶然的な、不思議な出来事もたくさん起こります。


そのような出来事にふと出会った時に私たちが感じる「奇跡」というのは。


自分の世界解釈が限定されたものであったこと、違う可能性がたしかにあったことを知り、意識の幅を広げていくための、大事なきっかけなんです。


・「奇跡」を因果律に当てはめるのはもったいない


でも、「いまここ」で感じる「奇跡」を、まるごと受け入れ、それを楽しめている人って、意外と少ないんです。

たとえば、非常に合理主義的に、「今回の出来事は、たまたま起こっただけで、取るに足らないものだ」として、その「奇跡」の感覚を打ち消し、忘却してしまう人。


これは、自分の「予想内」以外のものと認めず、因果律的な世界解釈を持ち続けようとする態度です。

あるいは、「この奇跡はきっと、〜〜という神様が起こしてくれた必然だ!」として、人智を超えた「神様」的な存在の計らいとして、その出来事を考えようとする人。


これは前回お話ししたことなのですが、そのような態度は、「奇跡」(「神秘」)を重要視しているようでいて、実は真逆のことをしているんです。


なぜなら、「奇跡」というものの原因を、人間を超えたルールとしての「神様」に求めることによって、それを原因-結果の因果律で解釈してしまっているから。


「神様」のような高次元存在を想定することで、世界を「予想内」に保とうとするために、そこには絶対的な規範としての信仰が生まれるわけです。


世界は、ほんとうは偶然に満ちています。


私たちが因果律的に解釈している(できたような気になっている)範囲というのは、実はかなりちっぽけだからこそ、その解釈を揺らがすものとしての「奇跡」の経験は、とても大切。


「いまここ」の「奇跡」を受けとめない態度は、実は非常にもったいないもののように思います。


現代のスピリチュアルにおいて大切なのはきっと、「いまここ」の「奇跡」を、因果律に回収しない態度です。


「奇跡」という感覚を、原因-結果の解釈なしに、自分に偶然に訪れたギフトとして、自然体で受けとめること。


これが、人間の意識がより自由に柔軟になっていくとされるアセンション期にふさわしい、「奇跡」の捉え方なのではないでしょうか?




・「いまここ」の「奇跡」をまるごと体感する


たとえば、こんな経験ありませんか?


・ふとした瞬間に、自分でも驚くようなアイディアを思いついた

・ずっとその存在に気づかなかったお店になぜか目が止まり、入ってみたくなった

・なんとなく、帰り道のルートを変えてみたくなった

普段の自分にはないような着想がふと下りてきたり、それに沿って行動してみたくなったりすることって、誰しもあると思うんです。


「インスピレーションが降りてくる」感覚ですね。


それって、自分の意識のなかに、偶然的に小さな変化が生じている証拠。


まさに小さな「奇跡」なんです!

それを、「こんなの気の迷いだ!」と切り捨てたり、「神様のお告げだから絶対に従うべきだ!」と執着するのではなく。(それらは、そのようなインスピレーションを因果律に回収する態度だからです。)


ただ、不思議で面白い経験として、素直に受けとめてみる。


「いまここ」の自分が楽しめそうなことであれば、試しにその直感にしたがってみる。


そうすると、「予想内」のものでしかなかった世界の、新たな可能性に気づくことができます。



「いまここ」の「奇跡」の体感を積み重ねていくことで、これまでの自分を縛っていた物事の捉え方の癖や、価値観や信念の方向性から、自由になっていく。


そうやって、自分自身の意識の領域をどんどん広げて、多種多様な可能性に開いていく。


このプロセスは、まさに魂の次元上昇としてのアセンションのプロセスと重なり合うものです。

・「奇跡」の体感=「神様」とのコミュニケーション


そして、この「いまここ」の「奇跡」の体感こそ、「神様」のような高次元存在との向き合い方にもつながる、重要な要素なんです!


いわゆる信仰の対象としての「神様」は、「奇跡」を因果律的に説明するためのルールです。


しかし、このアセンション期においては、自分の意識の拡張をもたらす偶然の出来事そのものが、「神様」とイコールなのではないかと思うのです。


たとえば、「いまここ」の私が、ふと、思いがけない形で、創作のアイディアを思いついたとします。


これって実は、スピリチュアルの世界でよく言われる、「神様」のような高次元の存在からのメッセージを受け取る、という行為と、ほぼほぼ同じなんです。


そのような「奇跡」=不思議なインスピレーション=「神様」からのメッセージを、「ああ、そういう可能性もあるかもしれない」と、まるごと受けとめてみると、なんとなく楽しい気分になる。


そのような「奇跡」は、私たちを縛るものでは決してなくて、逆に私たちをもっともっと自由にしてくれるものです。

ちなみに、YOKU STUDIOにおいて紹介している「手放し」のワークに、アセンデッド・マスターをイメージする行程を導入しているのも、同じような原理。


自分が抱えている感情や思考、信念のパターン(地球的周波数・分離的周波数)のフィルターを通して把握している、因果律的な「予想内」の世界に、「予想外」の不思議な存在としてのアセンデッド・マスターに対する想像力を導入することによって、世界の認知の幅が拡大します。


そうすると、自分を縛っていたパターン(周波数)を客観的に見ることができるようになり、その「手放し」がスムーズになるわけです。

(不思議なことに、体感としてかなり効果性を感じます…!)

ここでは、アセンデッド・マスターをイメージするという行為自体が、意識の変化を促す「奇跡」として働いていると言えます。


つまりYOKU STUDIOでは、アセンデッド・マスターのような、ある種の「神様」、高次元の存在というものを、人智の及ばない崇高な存在というより、私たちの意識をよりフラットで柔軟なものに変化させてくれる、身近なイマジネーションとして捉えているのです。


アセンション期における「神様」というのはあくまで、私たちの認識の可能性を広げてくれるもの。


言い換えれば、「いまここ」の私たちがこの世界で出会う、あらゆる小さな「奇跡」こそが「神様」なのだと思います。


「神様」とつながることとは、きっと、「いまここ」における小さな「奇跡」を大切に感じ取ることと、同じ意味なのではないでしょうか。